砧教会説教2017年12月24日
「この喜びを忘れない」
マタイによる福音書1章18節~2章12節
クリスマスおめでとうございます。
今年のクリスマス礼拝はマタイによる福音書の誕生物語を取り上げた。おめでたい礼拝であるが、少しだけ詳しく読んでみたい。
マタイの誕生物語に先立って、この書の冒頭には系図がある。一応ダビデを含むメシアの系図になっており、最後のヨセフとその妻マリアの夫婦からイエスが生まれたようになっている。ヨセフは夫とは書いてあるが、父であるか否かは伏せている。そのあとに、その不満を解くかのように、今日の誕生物語が続く。随分と工夫されているようにみえる。ヨセフは実は父ではない。つまり、ヨセフはダビデに連なるが、イエスはそれには連なっていない。にもかかわらず、このマリアに宿った子供の父とみなされた。ここにはメシアとしてのイエスの由来がダビデの系譜に属するかのようにしつつ、本当は属していないこと、つまり父はダビデ家とかかわりないことが同時に語られている。言い換えれば、このメシアは人間的であると同時に神的であるということだ。
イエスという名は「ヤハウェなる神は救い」という意味で、神の救済を象徴する。ただし、必ずしも特別な名ではない。それでも、「この子は自分の民を罪から救うからである」と記し、この名によって将来を暗示する。
「自分の民」とは誰のことだろうか。イスラエルの民(ユダヤの民)ととるのが普通だと思うが、このまま読めば「イエスの民」となる。イエスの民とは誰だろうか。彼が生まれたとされるベツレヘムの民だろうか。あるいは彼の本来の町ナザレが属するガリラヤ地方の民であろうか。いや、この誕生物語の著者であるマタイはもっと別な観点から書いているように思われる。イエスはダビデの系譜に連ならない。したがってユダヤの正当なメシアではない。それどころか、そもそも「聖霊によってみごもった」のであるから、彼は神を父とする子供である。それゆえ、「自分の民」というのは実際には神が創造し、導くはずの人間全全体を指す可能性がある。あるいは、「自分の」という以上、イエスの周りに集まった多くの人々を指しているともいえる。ここでは「民」は一般的なラオスであるが、ふつう「群衆」とも訳される言葉である。いずれにせよ、イスラエル(あるいはユダヤ)に限定する必要はないように思われる。では「自分の民の罪」とは何か。
ここで言われる罪とは原文では複数形なので、「原罪」という根源的で抽象的普遍的な罪のことではない。むしろ、のちに数多く言及されることになる癒しの奇跡の場面で登場する様々な病気や障害を指すのだろう。しかしそれだけでなく、病気や障害を何らかの罪に対する罰とみなして差別し排除する人々の、自覚されていない罪も指す。要するに、病や障害、性別による差別や不利益を被っている人々、そうした人々を差別し不利益を与えている人々、これら全体がマタイにとって「民全体が罪に陥っている」とみなすべきものだったのだろう。そしてその罪から「救う」(ソーセイ、ソーゾーの未来形)とは、そのような民全体のあり方を変革し、滅びの道から命の道へ導くことを意味する。
こうしてみると、誕生物語の冒頭には、イエスの生涯の目的が提示されていることがわかる。23節にはイザヤ書7章14節がギリシア語の聖書から引用され、処女降誕が強調されている。これはすでに述べた通り、イエスのメシア性がユダヤのメシアの系譜(ダビデの血筋)とは切れていること、神に属することを強調している。25節はそのことを強調する。「(ヨセフは)男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」。
さて、2章に入ると、イエスの生誕の地ベツレヘムに言及しはじめる。なぜか?それはミカ書5章1節に一つの予言が残されたからである。メシアはベツレヘムから出るらしい。ここで引用されたのはギリシア語の聖書からだが、ミカ書5章1節の一部とサムエル記下5章2節の一部が引用されているとされる。ただし、マタイではベツレヘムが最小であることが否定されているが、原文は肯定している。要するにマタイはベツレヘムの地位を反転させている。
前後するが、イエスの誕生はペルシアかバビロニアの占星術師によって予言されたとしている。その占星術師にヘロデ王に向かってこう言わせている、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と。ヘロデ王は驚いて周囲の律法学者、祭司長に尋ねると、上に述べた古の預言者ミカの予言を語りだしたのである。占星術の学者が星を見たというが、それはユダヤの地を漠然と指すだけである。そこで王家のヘロデのもとに来た。当然、王に子供ができたのだと信じていた。しかし、実際はそうではなかった。ヘロデは自分の地位が脅かされると思い、占星術師たちにその星の時期を尋ね、さらにその子について調査するよう命じた(8節)。学者たちはマリアとその幼子を見出し、拝み、宝物をそなえたという。
さて、この占星術師たちはイエスを「ユダヤ人の王」とみなしている。これはイエスの受難の場面と呼応する。すなわち、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きをイエスの頭の上につけたとされている(マタイ27章37節)。マタイはイエスの誕生とその死をこの「ユダヤ人の王」という言葉によって枠づけた。マタイの誕生物語は、ある種の暗示を与えている。私たちにはもはや感じ取れないが、マタイ自身はこの称号を冒頭に用いることを通して、ヘロデ王からも、大祭司からも、律法学者からも、そしてローマからも見放されていく、民衆の救い主としてのイエスの悲劇を暗示したのである。
「ユダヤ人の王」という占星術師の言葉は、ペルシアないしバビロニアから見た言葉に過ぎない。しかし、なぜ占星術師なのか。イスラエルの律法ではこのような技法はご法度であった。すると、イエスの誕生は、彼ら異邦人にとって第一に福音であったことになる。彼らは「幼子を拝み」宝物を捧げている。彼らにとってユダヤ人の王がなぜこのように喜ぶべきことなのか。ここからは推測だが(もちろんこの話をフィクションとは見ない前提で)、この占星術の学者はペルシアないしバビロンの、元来ユダヤ教徒だった人々かもしれない。つまり、彼らは自らの精神的故郷についての喜ばしき知らせ(福音)をもたらすために来たのである。だから彼らにとって、「ユダヤ人の王」という称号は、もちろん非常に名誉ある称号であった。それゆえ彼らは自分たちの王であるがごとく祝ったのはないか(ちなみに、ルカでは天使が「父ダビデの王座をくださる」と告げている〈1章32節〉)。
マタイによる福音書の誕生物語では、喜びはどこに現れているか?マリアさんでも、ヨセフでもない。この東方から来た占星術の学者たちに現れている。要するに、救いの始まりに気付くのは、その近くにいる人々では必ずしもない。それどころか、もっとも遠い人々に気付かれたのであった。それはなぜか。近くにいる人々は、それが喜びなのか不幸なのか、わからないからである。身近な出来事は、実は評価が難しい。最も身近な人の言葉は、かえって煩わしいものである。利害関係がなさそうな人の素朴で正直な意見や批評が一番有益である。当事者やその周囲、あるいはその属する共同体の中では、最も大切なものが逆に見失われやすいのである。
さて、誕生物語の解読にかまけてしまった。私は今年のクリスマスのテーマを喜びとしたが、キリスト教は、そして聖書の宗教は、喜びを出発点としていることに強く心打たれているからである。遠くモーセの時代、奴隷の国エジプトから救い出されたこと、律法を授与され、共同体を形成したこと、そして預言者とメシアが王国を導いたこと、バビロンに滅ぼされそうになったものの、捕囚の地で生き延び、やがて祖国に帰還できたこと、そして新たに宗教民族として生き延びたこと。これらはすべて、彼らにとって喜びの経験である。彼らはもちろん自分たちの罪や背きも深く、かつ強く意識したが、それ以上に救いの喜びをしっかりと心に刻んだのである。この物語は自分たちの喜びより、この幼子の誕生に核心がある。それはもはや事後預言、あるいは、回想であるが、イエスの生前の働きそのものが、本当の神自身のように見えたのであろう。
果たして私たち一人一人が、真の意味でこの人となった神と出会うことができるだろうか。日々の悩み、病や障害に悩み、真の意味での喜びを理解できないかもしれない。しかし、キリスト教の救いの第一歩は、喜びの経験であろうと思う。その経験がないと、世に生きることは困難である。そしてそれが共有されないとき、世の中はバラバラになるだろう。
今日の日のささやかな、しかし確固とした喜び、これを皆で寄せ集め、新しい一年の門出としたいと思う。