日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年12月31日
「創造された世界と人の歩みを顧みる神」詩編8編1~10節
 私たちがこの世界の、あるいは宇宙の、悠久とも見える時間の中で、人間として生きていることへの驚きを、時として強く感じることがある。同時に、生きていることが常にその終わり、すなわち死によって脅かされていることを意識せざるを得ない。それゆえ、その脅かしを強く意識すればするほど、生きていることのはかなさを感じることになる。
一方、この教会でほとんど偶然に、しかし各人が意思をもって集まった人々が出会うことの、不思議も感じる。仏教なら「縁」と呼ぶが、この出会いによって、私たちは自分の終わり、死による脅威を少しだけ緩和できるような気もする。もちろん、教会での出会い以前に、それぞれ様々な繋がり、家族や親せきなどのつながりによって互いに支えあって、死の脅威を緩和し、命の営みを前進させている。こうした自然的な共同体の力が、まず人間の現実を支えていることは確かである。しかし、命の営みが死によって閉じられることを強く意識したとき、命の営みの喜びが無意味なものに見え、まっとうに生きることが馬鹿らしくなることもあるに違いない。私たちにとって、このような虚無の力に服するのを乗り越える道を見出すことができなければ、あらゆる命の営みは結局、徒花(あだばな)のようなものとなる。
このような結論に対し、生きていること、命の営みそのものの在り方を世界の内部での漂いのような、あるいは流れのような、あるいは循環のようなものとするのではなく、この営み、生きていることにはまったく別の根拠があると考えた者たちがいた。彼らは命の根拠は、あるいは由来は世界の内部にあるのではなく、世界の外にあると考えた。そして世界の、あるいは宇宙の力によって左右される、すなわち私たちが普通に考える自然的な死によって支配されるものではないと考え付いたのである。さらに、その世界の内部での人間同士の営みによって、この命の営みが支配されるものでもないことも、同時に考え付いた。生きていること、命の営みには、私たち人間の思惑を超えた、別の思惑があると考え付いたのである。これを創造信仰と呼ぶ。
では、この命の営みの根拠、世界の外にあるものとは何か。それを彼らは「ヤハウェ」と名付けた。この言語の文法に従えば、「存在させる」ということだ。彼らは自分たちを「存在させられた」「命を与えられた」ものと考え、その存在させる主体を絶対のものとみなすことにした。だから、その主体を、あたかも自分の本当の親、あるいは主(あるじ)と呼ぶのである(「父」、とか「主(しゅ)」)。私たちには地上での、この世界での「親」や「主人」があるが、それとは別の、この世界の親や主人など、本来そのように呼べないほどの、本当の親、支配者がいる。それに従うことが完全なる出発点であると考えたのである。
旧約聖書の民、イスラエルの民は、このような、古代オリエントにあっては非常に新しい、しかも強力な信念を自分たちの集団の根本に据えたのである。今日の詩編の冒頭は、末尾で繰り返されているが、「主よ、私たちの主よ」という呼びかけは、まさにその主体、真の親への賛美であり、その支配の承認である。「あなたの名は、いかに力強く、全地に満ちているでしょう」という言葉は、はっきりと世界全体が、宇宙全体がこの主体の名によってその存在が許されているのだということを言明している。
2節最後の行がこの詩編の本体の始まりとしているが、この部分の最初の二つの言葉は本文が乱れている可能性があり、意味がはっきりしない。仮に、ギリシア語訳を採用すれば、「あなたの威光は天の上に上げられた」となる。新共同訳はこの部分を3節の最初の行につなげているが、3節は独立させるべきかもしれない。すると、「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは砦を築き、云々」となり、やや奇妙でもある。もっとも弱く見えるがしかし、本当は創造されたばかりであるゆえに創造者の力を最も帯びている「幼児、乳飲み子が」敵を滅ぼすのだと想像したのだろう。ある種、逆説であるが、これをさらに解釈すれば、幼子のもつ圧倒的なかわいらしさ、原初の命のいたいけな姿が、あらゆる敵対感情を溶かすということかもしれない。これは言い換えれば「強さ」ともいえるだろう。
さて、4節以下がこの詩人の感慨の中心である。彼はまず「あなたの天を、あなたの指の業を私は仰ぎます」と語る。私は年に一度くらい、天文の雑誌を買う。もともと天文学に関心があり、子供のころからその方面の研究をしたいと思っていた。このことについては祈祷会などでも時々話題にしたが、今年も12月初めに、関連の雑誌その他3冊を買った。その中の一冊に、ドイツのマックス・プランク研究所の所長のエッセイがあった。彼は幼少のころ、オリオン座の星雲を見て、天文学(宇宙論)の研究者になることにしたという。彼は宇宙の最初の光、つまりビッグバンと呼ばれる最初の爆発的光の残光を追い求めているのだという。現代の宇宙論は、そもそも創造者を導入することはしない。単なる自然過程としての宇宙の始まりを記述するだけである。しかし、古代のこの詩人をはじめ、古代から現代にいたるまで、詩的人間は天を仰ぎ、そこにある意思を感じ取り、その背後にあるはずの「永遠の汝(なんじ、あなた)」にむかって呼びかける。この詩人もその一人に見えるが、彼は「月も星も、あなたが配置なさったもの」と語る。彼にとって、月や星はいわゆる「神々」ではない。つまり、オリエントにおいて神々とされた自然の世界の諸力は、実はその背後にある、あるいはそれらを支配する絶対的なヤハウェによって創造され、しかるべき場所に位置付けられたのである。
そしてそのあとに、この詩人の核心となる問が発せられた。「そのあなたが御心にとめてくださるとは、人間とは何ものでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(5節)。この問かけは、この詩人に特別なわけではなく、あらゆる「人間」において生じるものかもしれない。これは自然の生命体としての人間ではなく、創造者によって与えられた命を持つ、すなわち「霊」によって生きている人間としての、存在理由を尋ねているのである。というのも、おそらく人間だけが、創造者によって、創造されたものであることを知りうるものとして創造されているからである。人間が「神に僅かに劣るものとして」存在しているというのが、この詩人の了解である(ただ、この個所の神〈エロヒーム〉が超越的な創造者を指すのか、それとも天使的な神格のことなのか分かりにくい。後者をとれば、創造者の超越性を損なわないように思われる)。6節の言葉は、この世界、さしあたっては地球の生き物であるが、これら人間以外の被造物が人間の足元に置かれていると語る。つまり、人間に特別な力があるとすれば、それはこの地上世界を正しく治めることである。そのために人間は、神に顧みられているのである。
私たちはすでに、人間を顧みる創造者が存在することを想像できなくなりつつある。それゆえ、自然の生命としての終わりにとらわれ続け、その死という限界によってすべてはむなしく消えるのであると考えてしまう。しかし、旧約聖書の詩人は、そのような単純なことで済ますことはない。そのような限界はせいぜいこの被造物世界の習いに過ぎないのであって、この地上の生死ではなく、この地上の生死自体を超えた、創造者とのかかわりにおいて見出される「命」(霊による命)から始めたのであった。その、いわば上からの命が、人間に深く自覚されたとき、人間は自らのなすべきことがわかる。この世界の、いわば指導者である人間は、この世界を神の意志にふさわしいものへと変えていく使命を担う。新たに作られていく世界は人間にとって都合の良い、あるいは一部の人間にとって都合の良いものであってはならない。それは世界にとって、そこに生きるあらゆる生き物にとって、ふさわしいものでなくてはならない。本来、生命体としてのあらゆる生と死を、うまく循環させるような安定した世界を作り出すことが、人間の目標なのかもしれない。
このような目標があらゆる人間にとって共有されたとき、人間の新しい歴史が始まるのかもしれない。私たちはその途上にいるのだろう。私たちは一人の地上の生命体として存在するだけではなく、創造された世界を超えた創造者である主体とのかかわりにおいて生きている。すなわち、「霊」によって生きているのである。ということは、そのことを深く自覚した、もしくは強く自覚した者は、この地上の生死を離れて、永遠の命を生き始めているといえなくもない。この永遠は、この地上での永遠とは質が違う。そもそも地上で永遠ということは、ありえない。なぜなら、それは創造されたものにすぎないのだから。逆に、創造者とのかかわりを知ったとき、私たちは永遠を知るのである。そして、私たちはそのような永遠を知りうるものとして、ヤハウェによって顧みられたのである。そのような次元の自覚、水平の軸とは別に、垂直の軸において生きることを私たちは取り戻す必要がある。もちろん、わたしたちキリスト者はそのことに当然自覚的であるはずである。それがキリスト信仰というものだから。それでも、私たちの多くは、残念ながら、信仰のもつ真実性(リアリティ)をはき違えて行きがちである。特に、キリスト教の持つ依存性、あるいは逃避的な手段と化した姿を見るとき、その感を強く持つ。本来、キリスト教はこの世界に縛られた人間を解き放つ力であり、同時にこの世界にある試練を悠然を乗り越えていく力である。その信仰の核心が、今日の詩編の問であるが、この世界の束縛が強力ななかで、あらためて、この詩編からのインスピレーションを私は宝としたいと思う。
明日からの2018年の歩みに主の祝福がありますよう。