日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2018年1月7日
「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章11~21節
 パウロの思想の前提にあるのは「主に対する畏れ」である。これは遠く古代イスラエルの預言者たちが持っていた感覚であるといえる。もちろん、ヘレニズム世界においても神々に対する漠然とした畏れや敬意、信頼や依存が一般的に存在しただろう。しかし、ヘレニズム世界においてすでに実現していた人間主義、ヒューマニズムは、古からの宗教伝統に基づいた感覚を失い、かえって人間に都合良く神々や霊性などが利用されていたように見える。さらに言えば、宗教性より、知的な世界理解や解釈を体系化すること、人間的な修養を通して賢人となることが理想化された。他方、人間的喜び、快楽もまた追及されており、その結果が古代ローマの文明として現代にまで残された。
 このような世界にあって、ユダヤ人であるパウロは、古代イスラエルの宗教思想を強く意識しながら、「主に対する畏れ」を呼び起こしている。すでに述べた通り、これは古代イスラエル預言者において最も強烈に意識され、そのことに関する表現が数多く残された。例えばイザヤはその召命において、そのことを極めて強く感じ取っている(イザヤ書6章)。このような畏れはもちろん預言書だけでなく、旧約聖書全体に満ち溢れている。主への畏れとは、創造者の圧倒的な力に対する無力さの裏返しであろう。この創造者には、創造だけでなく、破壊する力がある。創造者であると同時に破壊、死をもたらす主体である。このことが畏れの最大の理由である。この死とは、単にこの世での肉体の終わりということだけではない。おそらく、そこには魂も含めた破壊、言い換えれば存在の意味の喪失をも含まれるはずである。
 パウロは「主に対する畏れ」をキリスト者も当然持っているとする。これはユダヤ人にはわかるとしても、異邦人にはそれほど実感をもって感じ取られたのかはわからない。ここで呼びかけられているコリントの教会の人々の多くは、パウロのこうした畏れを共有していたのだろう。この畏れが感じ取られないなら、あとの議論は理解できないはずである。この点、2018年を生きる私たちが、パウロのこの議論を理解するには、やはり圧倒的な「主に対する畏れ」を、実感をもってとらえることができなくてはならない(せいぜい肉体の終わりまでだろうか。比ゆ的に言えば横へと流れていく時間の途切れに対する恐れ)。ただ、そのことの可能性についてはひとまず置いて、パウロの言葉を逐一考えてみたい。
 「主に対する畏れを知っている私たちは、人々の説得に努めます」というが、これは畏れを知らない人々に主の力の偉大さを納得させることである。彼は「わたしたちは神にはありのままに知られています」というが、これは創造者においては被造物の営みはすべて知られているということだ。それはもちろん、自然的、物質的、肉体的なことだけではなく、人間的、精神的、霊的なことも含まれている。これは当然のことだが、パウロは自分自身がありのままに聞き手の良心(スネイデーシス、コンスキエンティア)に知られたいと望んでいる。これは要するに、パウロの意図を偏見なく人々に理解してほしいということ。そうすれば外側を誇っている人々、つまり権力や知性、富や名誉といったものが人間の価値であるとする普通の考え方にたいして、新しい思想をもたらしているパウロたちを誇ることができるという。これは当時の価値観への挑戦であるが、この手紙をパウロが書いていること自体、そのことが難しいことであるのがわかる。
 13節は修辞的過ぎてわかりにくいが、要するにパウロたちの行動はあまりに強く「キリストの愛」によって駆り立てられているから、正気なのかそうでないのかわからないかもしれないが、冷静に見ればあなたたちのためなのだということ(神への熱情は時に狂気にさえ見えるということである)。
 14節後半からケリュグマ、すなわち彼の宣教の核心となる。「一人の方がすべての人のために死んだ以上、すべての人も死んだことになります」(14節後半)とは、キリストがすべての人に代わって死んだのだから、すべての人が死んだとみなされるということだ。もちろん実際には生きているが、キリストと共に十字架につけられ、罰を受けたとみなされるのである。これを逆から見れば、この代理の死を受け入れたものにとってはそれ以降の生活はキリストのために生きることに転換する。すなわち「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのため死んで、かつ立ち上がった方(すなわちキリスト)のために生きること」になる。これをもう少し解釈すれば次のようになる。キリストのために生きるとは、キリストに代わって、キリストのように生きることである。それは結局、この世にあって、「愛」を実践するということだ。キリストとは神の愛のことであるから、キリストに代わって生きるとは愛を生きるということである。
 さて、もはやキリストがわれらに代わってわれらのために死んだのだから、「わたしたちは今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」ということになる。つまり、だれにせよキリストを受け入れた者は、互いにその魂(精神)によって知るのであり、その人がこの世のどんな出自である、どんな性別である、どんな身分である、どんな病や障害を持っているといった「肉によって」知ることはない、つまり「世の」価値観とは違う次元を基にして生きることができる。
 さらに「肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はそのように知ろうとは思いません」とさえ語る。あのナザレのイエスという預言者的メシアの実際の活動を知ろうとは思わないというのである。これは、わたしは教会政治的な発言のようにも思う。パウロは生前のイエスを直接知らなかったし、敵対者でさえあった。一方、弟子たちはもちろん生前のイエスの活動を直接知っている。彼らにとっては見習うべき師であり、その言動によって救われたのである。つまり救いの原点は肉体をもったイエスの活動にある。
 しかしパウロはもはや肉に従って知ろうとはしないという。これは負け惜しみではないか。生前のイエスを知っている人の権威こそが尊いのであり、それを知らない人はその権威に従うほかないのではないか。しかしパウロは言う、「キリストと結ばれるものは誰でも、新しく創造されたものなのです」と。もちろんこれは肉としての生前のイエスの言動に根拠を置く人々のことではなく、キリストの十字架と復活を信じた人々のことである。そのような人々において、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」のである。パウロにおいて、十字架のイエス・キリストの出来事が神と人間を和解させるための神自身の行為である。この「和解」とは関係の改変、あるいは復縁とも訳しうるが、「和解」というのでは、これまで争っていたが、何らかの取引の末、関係が修復されたという感じである。しかし、パウロのいう和解(カタラゲー)は神の一方的な働きかけのように理解されている。すなわち「神はキリストによってご自分と和解させ、また、和解のための任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18-19節)。これは一方的な恵みであるが、神自身はこのことを自分の正しさを証明するために行ったのであった(これについてローマ書参照)。それゆえ、「人々の罪の責任を問うことなく」、となるのである。
 ところで、このようなパウロの理屈の背景には「世」を丸ごと罪に満ちた全体とみなす非常に大胆な見方が存在する。(そして同時に、世に対する完全な勝利が実現したとされ考えている。)これは冒頭に述べた創造論とつながるが、彼の意識において、世のもつ複雑さ、多様性は全く度外視されているように見える。かれにとって「世」とはすべて堕落した物資的世界のように見えているのではないか。もちろんその更なる背景には終末論がある。彼は最初に述べたように「主に対する畏れ」が強く意識されているが、当然終末の意識と深く関連するだろう。
 さて、「和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」というのはどういうことだろうか。これは簡単なことで、イエス・キリストの出来事の意味、すなわちこの世を再びまっとうなものと神が一方的に宣言し、この世全体の背きを赦したのだ、という宣教ないし宣言の活動をなせということであろう。それゆえ、「私たちはキリストの使者の務めを果たしています」となる。この世との和解とは、実際には人間を再び主への「畏れ」に気づかせること、いかなる人間もこの創造主の前では弱く(罪人である)、平等であるということに気づかせることである。そのような覚醒をもたらすために、パウロとテモテは活動している。
 パウロは最後の部分で再びキリストの犠牲について語っている。「罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(21節)。これは代理の贖罪であるが、すでにこのことについては触れた。この言明は、コリントの信徒に向けて、自分たちがすでに赦されていること、罪なき者とみなされたことを強く意識させているようにみえる。
 最後に、このようなパウロの世界観をわたしたちがどのように受け止めたらよいかを考えたい。
 パウロは「主に対する畏れ」について触れたが、これは非常に古くからの伝承に基づくが、実際のヘレニズム世界においてはもはや時代遅れであったようだ。しかし、そういうこととは別に、人間の根源的な問い、疑問が消えたわけではない。それどころか、自分たちの存在理由を問いかける人々が数多くいたのである。そして2018年の今も同じ様に、多くの人々がそうした問いの前に立っている。他方、宗教の力はこの時代、大きな疑いに晒されている。しかし、私たちはキリスト教への疑問をしっかりと見据え、それに応答しながら、他方で、圧倒的勝利、圧倒的な救いの出来事としてのキリストの福音を述べ伝えなければならい。そのことへの自信を、このテキストから与えられたと私は感じている。皆さんはいかがだろうか。