日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2018年1月21日
「キリストの貧しさにより、あなたたちは豊かになる」コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1~15節
マケドニア州の教会はおそらくその社会の中で、迫害されていたのだろう。具体的な様子は記されていないが、ヘレニズム世界の伝統を深く刻印されたマケドニア州では、ユダヤ教から生まれた新しい、かつ外目には閉鎖的に見える団体は異端視されたに違いない。もちろん、このような事態はおそらくこのコリントでも生じていたと思われる。
しかしパウロは「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」と、マケドニア州の教会の人々を誇る。彼らは貧しさにもかかわらず、「聖なるものたち」つまりパウロたちのような使途的伝道者を援助したという(3-4節)。パウロは8章から9章にかけて「施し」つまり伝道者そのほかへの自発的な献金を呼び掛けているが、その論の進め方はやや違和感がある。しかし同時に、そこには貧しさと豊かさの関係に関して、特別な考え方が提示されてもいる。
ありていに言えば、パウロは伝道資金の援助を呼び掛けているのだが、それは単に伝道者のためにあるのではなく、苦境に陥っている各地の教会を助けるためでもある。なぜなら、教会は個々の教会として独立しているのではなく、全体として一つなのであるから、相互に扶助しあわなければならない。もちろん、それぞれの特殊性を持った諸地域で同じように教会を維持運営することは当然できない。しかし、その地域の事情に翻弄されて教会の本質を見失い、キリストの救いの宣教を行えなくなれば、それはむなしいし、また危険である。そのためにはキリストの救いの出来事、福音を見失うことなく、その集まりの安定を、困窮にもかかわらず守るべきである。そのためには周囲の教会は力を尽くすべきである。おおよそ、このようなことをパウロは言っているが、この8章2節の言葉が面白いのは、迫害(と思われる)の苦境にありながらも「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に施す豊かさとなった」という表現である。ここにはパウロの考えるキリスト教理解の本質が表明されている。
驚くべきことに、喜びと貧しさが並列され、関係づけられている。彼にとって、喜びは貧しさとともにあるのだ。しかし、一見すると単に慈善の活動をしっかりやりなさいとしか読めない。「あなた方は信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善のわざにおいても豊かな者となりなさい」(7節)の表現は、なにやら陳腐に思える。要するに、お金をたくさん出しなさい、という風である。慈善の業において豊かになる、というのはレトリカルな表現である。お金をたくさん出すということは、気前が良いという意味では豊かであるが、これを続ければその人は貧しくなるに決まっている。しかし、豊かであることと貧しいことが、パウロは本気で矛盾しないのだと言っているのである。かえって貧しくなることが豊かであるとさえ言っているようなのだ。
そもそも、貧しさとは何だろうか。普通に考えれば、衣食住に事欠く、生きていくお金がない、という物質的な困窮である。貧しさとは「必要に迫られている状態」ということだ。このことをやや広くとれば、何かに追われている状態、ともいえるだろう。すると、豊かさとはその反対で、必要に迫られていない状態、何かに追われていない状態である。ところで、私たちはいまのところ衣食住に事欠かないとしても、つまり豊かにみえるとしても、必要に迫られるという不安はいつもどこか存在し、それに対する予防措置を常にめぐらしている。ということは、私たちはつねにその不安と共存しており、それゆえ、そのこころは休まることがない。そして持てば持つほど、一層それが失われることを恐れる。
しかし、本当の意味で貧しいというのは、そうした必要と不安にとらわれていないことである。それはいわば生き物としての当然の欲求も含めて、それらの力に左右されない境地である。現実的に食べるものがない、着るものもない、住むところもない。これは一見悲惨であるが、かりにそもそもそうしたことへの必要性に縛られることがないゆえに、その状態、つまり「貧しい」のだとすれば、その状態はその人にとって豊かである。なぜなら、「必要にせまられて」いないからだ。こんなことを言うと、経済的な貧困にあえいでいる人を馬鹿にしているように見えるかもしれない。しかし、必要に迫られているという根本的事情は人間でなくても同じである。したがって、このような意味での貧しさの克服は人間としての豊かさとは関係がない。
キリスト教がいう貧しさはもちろん、物質的な貧しさを出発点とするが、その貧しさは否定的にみるべきものではなく、それ自体崇高なものである。つまり、貧しさにとどまることが別の次元の豊かさに気付かせるといってもよいだろう。
では別の次元の豊かさとは何か?それは貧しさにおいて貧しさを積極的にとらえたとき、人間は霊において生きていること、精神として生きていることを見出し、同時に霊において、精神において我々を存在させる他者、我々に真の命を与える者、すなわち神に出会うのである。つまり、貧しさは神とともにあることの喜びとなりうる。
一般的に、多くの偉大な宗教伝統は、そのことを深く知っている。修道院であれ、寺院であれ、それらの機能は、端的に言えば貧しくなることを通して喜びにであう、すなわち豊かになるためのものである。
そのことの端的な範例、モデルがキリストなのだとパウロは言う。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。これも非常にレトリカルな文である。前半は神の地位にあったものが、地上で人間となったという意味で、豊かな者が貧しくなったということ。後半はキリストが自分の命を十字架で失うほどに、全面的にささげつくすこと、究極の貧しさによって、すべてを人間のために与えつくしたことによって、人間が逆に豊かになったということである。しかしここで誤解してはいけないのは、人間が豊かになったということは当然物資的な意味などではない。人間が真に人間となった、つまり霊における、精神における豊かさを持ったということである。言い換えれば、それは人間が貧しさのもつ豊かさを知ったということである。
「キリストが貧しくなった、それはあなた方を豊かにする」というのは、キリストがあなた方に貧しさにおける豊かさを教えたということである。しかしこのような表現はもちろん、誤解を招く。豊かであることと貧しさは矛盾しているからだ。ここでいう豊かさとは、精神の豊かさである。人間は動物としてまず存在し、常に飢えている。それはいつも必要に迫られている、追いかけられているということだ。しかしそれはいまだ、人間としての次元に至っていないのである。その不安や強迫観念を払うために、呪術を生み出した。あるいは依存すべき神々を作り出した。あるいは、戦いを通じて他者の富を奪うこともしてきた。そしてそれは現在至っても、実はそれほどかわらないようにも見える。例えば、アマゾンという電子商取引(EC)を行う会社が途方もなく巨大化している。流通業を根本的に作り変えるかのような勢いである。そして非常に便利になり、一見豊かになったような気もするが、それは単に無限の必要に迫られていく、あるいは無限に深い蟻地獄に飲まれていくような感じでもある。また、電車にのればほとんどの人がスマホを見ている。つまり膨大であるが実は底の浅い情報のネットワークにからめとられている。ヘレニズム時代の豊かさはもちろん現代のそれとは違うが、構造は似ている。要するに、人間的、いや動物的な必要を文化として昇華していたのである。それはもちろん確かに豊かではある。しかしそこには救いがない。同時に、極端な不平等も生み出し、物質的な貧困も激しかった。
このような物質的な豊かさと物質的な貧困は世界をゆがめるが、その中にあって最大の問題は、結局精神の、霊の、魂の豊かさを発見する、あるいは創造する、あるいは気づかせることであった。そしてパウロの理解するキリストは、かえって貧しさを完全にポジティブなこと、豊かなことに転換させたというのである。貧しさは、自らそうなることによってかえって人を豊かにする。それは物質的な援助ということではない。真の援助は豊かになるのではなく、必要に迫られないようになるということである。つまり「豊かになる」のだ。それはいわば魂の充足ということでもある。このような「宗教的」な仕掛けがパウロの言説にはある。
ただ、彼が「キリストの貧しさによってあなたがたが豊かになる」という言い方は、ある種の恩着せがましさを響かせている。つまり、負い目である。その負い目ゆえに、貧困者への、あるいは伝道者への、あるいは他の教会への援助をなさねばならないという気にさせているようにも見える。他方、貧しさこそがキリストに倣うことであり、結局その貧しさが自らの救いを確証するのでもある。
パウロの言葉は、重層的に書かれているように見え、単純に信仰の勧めの書ではない。この個所ではやはり、本質的ことばは「主の貧しさによって、あなた方が豊かになる」であると思われるが、不必要なものを排除していくことによって、つまりは貧しくなることによって、人間はかえって精神の豊かさに至るのであり、その豊かさを保持し、伝えていくことによって、世界は真の意味で救われていくのである。このような非常に遠大な希望をパウロは持っていたのだろう。同時に、そうした究極の展望とは別に、その時々の情勢、時の務めとして、具体的な扶助の呼びかけもしたのである。この二つが巧妙つなぎ合わさせているように見える。
それでも、貧しさと豊かさ、喜びが並立することに対する深い洞察は、私たちの心を揺さぶるものであるのは間違いない。