日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2018年1月28日
「自分の弱さを誇るパウロ」コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1~10節
 パウロは実に論争的である。今日の文章も非常に手の込んだ修辞に満ちており、正直、理解に苦しむ箇所も多い。本来、今日の箇所を理解するには10章から読むべきであるが、説教の中で、聖書をあまりに長く取り上げることはできないので、この部分だけを取り上げた。
 10章以下は敵対者に対する反論のようである。単なる諭しや説得ではなく、彼自身の正統性を強く主張するテキストである。そのために、伝道の過程に自分がどれほど厳しい戦いを強いられたか、そしてそれをどのように乗り越えてきたかを、彼一流の過剰な表現を用いて語っていく。例えば、10章3節以下
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。10:4 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、10:5 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、10:6 また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。
あるいは11章21節以下
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。11:22 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。
11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。11:30 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
彼は自分が厳しい苦難、迫害を乗り越えてきたことを語るが、このようなパウロの姿は、もちろんイエスの生涯を下敷きにしている。他方、パウロ自身の歩みが後代のキリスト教伝道者の範例となったともいえる。それほどに、パウロの働きは影響力が強いのである。
 さて、こうしたパウロの、誰の追随をも許さぬ圧倒的な行動力と粘り強さ、大胆であると同時に謙虚でもある態度は、マタイ伝のイエスの勧告「蛇のように賢く、ハトのように素直に」(マタイ10章16節)を地で行っているように見える。しかし彼は、自分のそうした「強さ」を誇ろうとはしない。かえって「弱さにかかわることを誇りましょう」(11章30節)というのである。この言葉の後に、彼自身が捕まる寸前の状態にもかかわらず、つまり、危機の状態、非常に「弱い状態」であったのに、ある人々によって窓から釣り降ろされて助かったというエピソードを加えて、誇るべきことは何かを暗示した後、今日の断章へと至るのである。
 彼はいきなり「誇らずにはいられません」と語りだす。そしてかつての啓示体験を婉曲的に語りだした(使徒言行録9章1-9節、26章12-18節参照)。すなわち
12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
もちろん、「一人の人」とは14年前のパウロ自身を指している。彼は自分がダマスコへの途上で、イエス(あるいは神)からの啓示を得たことを他人事のように語り出すのである(3節後半は書写生の誤記か)。彼は神との直接的な関係に入り、その言葉に接したことを誇るのである。いささか奇妙な話である。しかしこの誇りとは、結局彼自身の誇りとなるようなことではなく、神自身が彼をとらえただけのことにすぎない。要するに彼の力で神をとらえたのでもなければ、その地位(第三の天、すなわち最高の場所)に至ったのではない。かえって、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と語るほかないのである。それでも、神との直接的な関係に入ったことを彼は誇り、それをあくまで自分の正統性の根拠としたいのである(6節の言葉から)。
彼は行ったり来たりしているように見える。結局彼は、自分の権威、イエスとの直接的な関係(これさえ主観的な出来事なのだが)を誇りたいのである。それでも、そのような自己宣伝によってほかの人が「過大評価する」かもしれないし、それ以上に、イエス・キリストの出来事そのものの素晴らしさゆえに、一層パウロを過大評価するかもしれないことを憂いている。なにか途方もない「自信過剰」、いや「自己陶酔」にさえ見えるほどで、こちらが赤面するほどである。このようなあからさまな表現をなすこと自体、私たちからすると奇妙だが、このあまりの正直、あまりの愚直さこそが、パウロの憎めなさなのかもしれない。
しかし、このような自信過剰、自己陶酔を戒めるために「わたしの身に一つのとげが与えられました」と加えている。そして「それは、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」という(8節)。これは何か身体的な病か障害を指しているのかもしれないが、彼の何らかの「弱さ」を暗示させる。彼はもちろん、そのような痛みや不自由を取り除かれたいと祈ったが、主はこう言ったのだという。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」と(9節)。
ここで論旨が転換しているように見える。彼は自分の自信過剰をたしなめるためにとげが刺さったのだというのだが、それを「弱さ」と言い換えている。本来その痛みがあるから自分が自己過信に至らずに済むということであったのに、そのとげ、その弱さがあるからこそ、「力」が発揮されるといい始める。これはいかなる意味なのか。
彼は、本当はやはり、打ちのめされてきたのではないか。彼はイエスの啓示に捕らえられてしまったため、かつてのユダヤ人としての誇りを捨てざるを得なくなったのである。要するに彼はあの体験以降、引き裂かれたままなのかもしれない。だからこそ、異常なほどにあの体験を誇らざるを得ない。他方、それはかつての自分から見たら、愚かな姿でしかない。彼はその「愚かさ」つまり十字架で死んだ男がメシアであったという啓示にとりつかれたのであった。これを誇りとして生きることはリスクである。けれども、これこそが新しい、そして最後の啓示、いや新しい契約である。そこから、人間にとっての真の救い、そして新しい倫理が生じる(終末論的倫理)。このように思い直し、ついにはそのことの圧倒的な確信に至ったのであろう。そのことを彼はやはり、誇りたい。それでも彼はそれを自身の何らかの不都合、障害か病か、それとも別の何かによって抑制されるべきであるとする。そしてその抑制、弱さをもつこと、とげの痛みを持ち続けることをかえって肯定的に評価し、その痛み、とげゆえに、神の恵み、すなわち救いの力、そして彼自身の活動の力、宣教へのエネルギーが発揮されるのだという。
9節後半から10節は、自分のとげの痛みを一転して誰でもが持つ弱さの問題に転換し、その弱さを誇るように勧告する。「人間は弱い時にこそ強い」、これは全く矛盾する表現である。しかし、パウロはこうした逆説を使う。前回(1月21日)の説教では「貧しいことが豊かさである」という話をしたが、今回も実はそれと同じようなレトリックである。人間は弱さ、自分のとげを深く意識できたとき、それはすでに強さに変わっているということであり、言い換えれば、弱さを弱さと認めたとき、それはすでにそこに強いわたしが現れているということ、さらに言えば、その強いわたしとは、そこにイエスがともにいる、あるいはそこにイエス・キリストの神が私に重なっているということである。
弱さを誇るというのは、結局、その弱さゆえに神は恵みを与えるということと同じかもしれない。だからこそ、彼は「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(10節)と喝破したのだろう。弱さ、すなわち自分自身の危機を深く意識したとき、あるいは自分の限界を悟ったとき、そのときにこそ、神は私たち一人一人に舞い降りる。そしてその力は私たちと一つとなり、新しいわたしを創造する。その新しい「わたし」は、かえって弱さゆえに強くなり、新しい明日を、作っていくことができるのだろう。明日とは、向こうからやってくるのではなく、結局、新しいわたしが作っていくほかないのである。そうでなければ、それは単なる今日の、つまり弱さを認めることのできぬ私のままである。
わたしたちは弱さにとどまることをふつうは失敗や敗北とみなす。しかし、キリスト教はかえって自分の弱さと真剣に向き合い、弱い自分をさらけ出し、かえってその弱さを「誇る」時、弱さに敗北したかに見える時、実は弱さを越えた強いわたしに至る。しかし、それはもはやただのわたしではなく、「キリストと共にいるわたし」であり、「聖霊に満たされたわたし」なのである。
このような逆説を、パウロは「真理」として、つまり覆いを取り除かれたものとして、本物の救いとして、語り続けたのだろう。弱い時こそ強い、この逆説をかみしめて新しい週を過ごしたいと思う。