日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2018年2月4日
「災いを予言する者を信じることができるか?」エレミヤ書1章11~19節
 預言者エレミヤは紀元前7世紀末から6世紀初めにかけて、エルサレムで預言者として活動した。この時代は、ユダ王国と都エルサレムの滅亡の時代である。彼の活動はその時代と重なっている。彼は自分の国が滅んでいく過程を傍観していたのではない。あるいは滅亡の流れになすすべなく流されていたのでもない。彼はこの時代にあって、あらゆる出来事を神の言葉として、つまり意味あるメッセージとして受け止めた。そしてこの時代にあって、何をどうしたらよいのか、民族が生き残るために何が最善かを考えた。しかし、まず彼がなしたことは、危機の喚起と民に対する批判である。
 彼は自分の召命に際し、生まれる前から預言者として選ばれていたという神の言葉を聞いた。そして、単に自国の民のみならず、諸民族すべてに対する権威を授かったという確信も持った。召命の記事のすぐ後に来るのがこのテキストであるが、そこでは早速神自身からの問いかけがなされている「エレミヤよ、何が見えるか」(11節)。この後は言葉遊びのようだが、シャーケード(アーモンド)の枝、とショーケード(見張り)が重ねられ、神が自分の言葉を成し遂げるためにエレミヤを見張るというのである。つまり、エレミヤは神の道具として、神の審判の告知者として、あるいは告知されたことの実現を証言する者として、自分自身を幻の中に見ているのである。
 再度神は問う、「何が見えるか」と。今度見えたのは「煮えたぎる鍋」であった。これが「北からこちらへ傾いている」という(13節)。これは何を象徴するのだろうか。もちろん、煮えたぎる鍋であるあるから、非常に熱く、危険である。エレミヤへの幻はすぐにそのあとに解釈された。これは神があらためて解釈を与えるという形になる。エレミヤが幻を見、その後に神が解釈するのである。
 ヤハウェは言う。「北から災いが襲いかかる」と。しかしこれもあいまいである。北からの災いとは具体的に何なのか。これは当然バビロンを指すと思われがちだが、必ずしもそうとは言えない。「北」という方角がどのあたりまでを指すのかは一義的ではない。なにより、15節の冒頭に「北のすべての民とすべての国に」とあり、「北からの災い」が「北のすべての民とすべての国に」向けてやってくるというのだから、「北からの災い」とは通常の北の国々よりも、より漠然とした北方、より遠い北の世界からやってくるという感じがする。とすると、通常の北がシリアとアッシリアであるとすると、それより北といったら、オリエント世界において知られた地域の外の可能性がある。もちろん、「北」という言葉を漠然と遠方ととれば、北東のメディアや東のバビロンの可能性もある(彼らもエルサレムから見れば結局北からやってくるのだから)。しかし、紀元前7世紀の歴史から見ると、この遠方の「北」とは騎馬民族の跋扈する世界の可能性がある。キンメリア人やスキタイ人といった馬に直接乗って武器を操る人々の活動が活発となり、彼らはしばしばオリエントの農業文明を脅かし始めたのであった。
 しかし15節後半を見ると、彼らが「エルサレムの門」と「都をとりまく城壁とユダのすべての町々にむかってそれぞれ王座を据える」とあるので、これはどうも騎馬民族の襲来というより、膨大な歩兵を伴ったバビロンやメディアの王による包囲をイメージさせる。すると、やはりこれはやがて現実となるバビロンの攻撃の預言となるだろう。
 ところで、こうしたあいまいさを、エレミヤ書は意図的に残したように見える。なぜなら、あきらかにバビロンをイメージしていると思われる箇所でも(例えば4章以下)、まずバビロンという具体的な名前を出さないのである(20章まではバビロンという語は出ない)。政治的な理由なのか、単に文学的な表現(婉曲表現)なのか、それとも、宗教的な理由があるのか。つまり、具体的に名を出すことは、捕囚となった人々の中で政治的に憚れたため、エレミヤの預言から削除したのか、それともバビロンという固有名詞に限定するより、神の審判の普遍的な表れとして「北」という方位を用いるべきと考えたのか、あるいはバビロンなどという汚れた、かつ不吉な名を挙げることを憚ったのか。いろいろと考えられよう。ともあれ、やはり、これはバビロンの攻撃を予言しているとみるべきだと思われる。
 16節はこうした外敵の攻撃が、「わが民の甚だしい悪」に対する裁きであるという理解を示している。より具体的には「彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏した」ゆえの裁きである。つまりヤハウェを捨て、偶像になびいたからだという。この理由付けは、やや安易な気もする(この部分は後からの付加のようにも見える)。いわゆる、申命記史家的な決まり文句のような感じもする。
 そのあと17節以下では、エレミヤ自身に向けて改めてヤハウェが命じている。
 1:17 あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな/
 わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。
 1:18 わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて/堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として/ユダの王
 やその高官たち/その祭司や国の民に立ち向かわせる。
 1:19 彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、救い出すと/主は
 言われた。
ヤハウェなる神はエレミヤに対して恐れることなく民に預言を語れと言う。しかもそれを行わなければ、ヤハウェはエレミヤをおののかせるという。つまりこれは脅しである。エレミヤは神からまさに強いられて預言する。預言をしなければ、神は預言者自身を滅ぼすのである。預言者とは常に板挟みである。民に向かって災いの預言を語ること、民の腐敗、権力者たちの横暴に対して非難や審判を告げることは、非常に困難、かつ危険である。それは時として、命がけであるに違いない。しかし他方で、この活動は自分の酔狂でやっているのではなく、ヤハウェなる神の命令だからやるのである。つまり、預言者は二つの力、人間の権力と神の権力の間にあって引き裂かれている。しかし、なお神の権威を信じ、それに従うほかはない、と決断したのである。
 その決断を促したのは、19節の言葉である。「私があなたと共にいて、救い出す」。結局、エレミヤはこの神の言葉を信じたのである。預言者であることは常に困難である。しかし、最終的にはこの世の権威や権力を越えていると信じられたあの神、創造と裁きと恵みの神、イスラエルをかつてエジプトから導き出し、彼らを自由にした神ヤハウェに信を置いたのである。このような主観的に見える確信から、預言者の活動は始まったのである。
 さて、私たちはこのような確信のもとに活動する人々、発言する人々を快く受け入れることができるだろうか。エレミヤのような災いの預言者をわたしたちは受容し、自らを省みて、正していくことができるだろうか。素直に従うことができるだろうか。
 いきなり、時代も場所も飛ぶが、たとえば原発の危険性をはるか以前から指摘していた高木仁三郎、あるいはもっとはるか昔、旧谷中村の窮状を直訴した田中正三、あるいは江戸中期の安藤昌益、あるいは鎌倉末期の日蓮、さらにさかのぼれば法然、などなど。いまでは、彼らの働きは称賛されている。しかし、当初はほとんど迫害か無視か、変り者のレッテルを張られ、たいていは相手にされなかった。災いの預言、審判の言葉、時の権力に抗う言葉は、その多くは実は残らなかったのだろう。しかし、その一部は、その本物さに信頼する人々を生み出す。預言者たちの言葉に信頼し、その言葉に基づいて自分たちを顧み、悔い、そして新しい世界と時代を築こうとしたのである。
 はたして、私たちのこの時代、私たち自身がエレミヤの声を聴くことができるのだろうか。そもそもそのような人物に気付いているだろうか。
 おそらくエレミヤの時代も同じであった。多くは今日と同じ明日が来ると思っていた。北からの災いなど空言(そらごと)であると笑っていた人が多かったかもしれない。しかしわたしは、エレミヤの時代でも、危機の空気を感じていた人々もある程度いたと思う。でなければ、このようなテキストが残るはずもないからだ。
 私も含め、いつもと同じ明日が来るだろう、もちろん、それぞれ成長し、また老いていく、そのような自然の営みの中にあるという漠たる思いもある。そしてそれは平和なことである。しかし、エレミヤは、そして世に知られる多くの預言者的人物は、このような安穏さに警鐘を鳴らし続けた。
 他方、災いの預言は人々にあらぬ恐れも呼び起こす。それは、その災いに対処するためにより一層自分たちを強固にしようとするものである。
 しかしエレミヤは災いを語るだけではない、かえって自分たちを顧みることを求めたのである。つまり、悔い改めを。そのことが理解されないと、災いの預言、例えば北からの外敵の攻撃には、より強力な武器を準備しようとなるだろう。つまり、侵略にはそれを蹴散らすよりすぐれた防衛力を持たなくてはならないと、そして自分たちの国は決して亡ぶことはなく、そのためには神を信じ、戦勝を祈るのが正しい方策であるとする者たちもたくさん現れるであろう。
 エレミヤは彼の預言の始まりにおいて、そのようなさまざまな思惑に直面することが暗示されているが、それをも超えて最終的には「私があなたと共にいる」ということばに賭けたのである。そのような信仰、あるいは心意気に触れているわたしたちは、今この時代において、やはりエレミヤ的な人間に気付く必要があるだろう。それが誰であるかは、私は言うまい。それは野暮である。かえって、皆さん一人一人が、「災いを告げる預言者」を見出すはずである。もちろん、それが多くの人と共通の場合もあるだろう。しかし、わたしだけの「災いの預言者」である場合もあるだろう。いずれにせよ、その言葉を真剣に受け止めること、そして今の私、この時代を超えて、あるべき自分、あるべき世界をつくるために努力していかなくてはならないと思う。