砧教会説教2018年2月11日
「信じさせる力に抗して―「信教の自由を守る日」に寄せて」
ダニエル書3章1~18節
今日の聖書はダニエルの三人の仲間が信仰の自由を貫こうとして、王から脅迫されるが、それにひるむことなく、主張を変えなかったことを伝えている。ダニエルの三人の仲間は、かつてダニエルが王の夢の謎を解いた際の褒美として、この友人たちの優遇を願い、その結果、バビロンの王ネブカドネザルに行政官として仕えていたのである。しかし、ある時、バビロン王は金の像を建立し、帝国の主な行政官を集め、除幕式に参列させ、その像にひれ伏すことを求めたという。そしてその命令に背くものは「燃える炉に投げ込まれる」とされた(6節)。像の具体的な姿は書かれておらず、大きさだけが記される。およそ高さが24メートル、幅が2.4メートルと、たいへん大きなものであった。
この除幕式に際して、ユダヤ人を中傷するものが現れ、彼らを陥れるために告発する。
「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。
3:10 御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。3:11 そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。3:12 バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
ついに三人は王の前に召喚され、尋問されたが、彼らは自らの主張を展開した。
「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。
3:17 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。3:18 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
彼らは、自分たちの信仰を貫こうとしただけでなく、仮に迫害され、処罰されようとも、イスラエルの神が救ってくれることを信じていることも告げている。すでにここには殉教とそれを支える不死、あるいは復活の信仰も表明されているように見える。
この物語の背景はひとまずバビロン捕囚の時代であるが、バビロン王ネブカドネザルがユダヤ人を厚遇したとはほとんど考えられないので(つまり敵であったから捕囚として連行した)、このようなユダヤ人の優遇はバビロン時代の後の、ペルシア時代を経ていることを前提とする。ペルシアは捕囚民を解放し、ユダヤへの帰還とエルサレムの再建を認めたのであった。そして、ペルシア帝国の皇帝たちは、ユダヤ人を高位の官僚として用いてもいたのである(ネヘミヤは皇帝の側近でさえあった。エステル記にもそうした背景が認められる)。ペルシアは宗教的には寛容であった。ただし、その寛容がどの程度であったかは、かならずしもはっきりしないが、ユダヤ教を容認していたのは確かである(神殿の再建を認めている)。もちろん、ペルシア王の権力は絶大であったから、いざとなればユダヤ教を弾圧することもできただろう。信教の自由をペルシアは認めていたが、それは日本の大日本帝国憲法と同様、帝国の秩序に従う限りにおいてであり、皇帝の命令は絶対である以上、信教の自由が権利として絶対のものであろうはずもない。ただし、この物語の真の背景は、ペルシアではない。ペルシアはもっと鷹揚であったはずである。ここで偶像礼拝を、処罰を前提に命じているのはネブカドネザルではなく、実はセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスであるとみられる。この王を、ユダを滅ぼしたネブカドネザルに重ね、同時に、背景をペルシア時代として描いているのである。
さて、ここでの問題は、ダニエルの友人である3人の友人の態度である。ここには自分たちの信仰を守り抜こうとする強い姿勢が称揚され、かつ推奨されている。アレクサンドロス大王の東征以降(紀元前4世紀末以降)、ヘレニズム帝国の勢いは圧倒的であった。ペルシア的な、つまりは最後のオリエント的な風景が、激しく変容していく時代である。その中にあって、ユダヤ人は自分たちの選びを信じ、この世から自分たちを遮断しつつ、神の裁きに耐え得る人格的な高潔さをモーセの法を遵守することを通して保ち、この世のいわば模範として生きることを自らに課したのであった。
このような生き方の根本に、「偶像にひれ伏さない」という厳しい掟があった。「モーセの十戒」の第二である。これは創造の神ヤハウェを唯一の神とする第一戒と一体である。要するにこの掟は、この世の支配に隷属することを拒否するということであり、その支配の力を象徴する偶像も認めないし、ひれ伏すこともしないということ。
これはもちろんきわめて偏屈に見える。しかし、真の自由を求める態度はユダヤ教のそれをもって白眉となすように思われる。もちろん、知の自由を貫いたソクラテスをはじめとするギリシアの賢人たちも捨て置くことはできないが、これは別の視点から改めてなされるべきだろう。ユダヤ的な信仰の自由は、一人の人間として持つはずの本質的自由とかかわる。つまり精神の自由ということだ。それは、ダニエル書の本日の箇所以降、黙示文学的要素によってやや幻惑されてしまうが、本質はそれだと思う。
このような信仰の自由という問題は、ユダヤ教において先鋭化されたが、それを引き継いだキリスト教はこれについてアンビバレントな態度をとった。要するに、キリスト教はローマによって迫害される間は、命を懸けて信仰の自由を保持したが、ひとたび帝国の公認宗教となるや、今度は信仰の自由を強く制限するようになった。信仰はもちろん内面的なものだが、しかし信仰の自由はそれを表現する自由と一体である、すなわち宗教的実践、文書化された信条(信仰告白)、儀礼(洗礼や聖餐など)、伝道が自由になされてよいはずだが、それは次第に不可能になった。もちろん、キリスト教は公会議によって、決めていくのだから、確かに民主的である。しかし、その決定は絶対化され、やがて「公同の教会」、ローマカトリック教会以外は、すべて異端とされていく。
ローマカトリック教会の中世末期の異端審問と弾圧は極めて過酷なものだったが、15世紀末になるとそれを打破する動きが活発化し、やがて16世紀の宗教改革に至るが、その過程でいわゆる信教の自由が確立されていった。憲法学の教科書として定評のある芦部信喜『憲法 第4版』(岩波書店、2007年)によると、
「近代の自由主義は、中世の宗教的な圧迫に対する抵抗から生まれ、その後血塗られた殉教の歴史を経て成立したものである。それだけに、あらゆる精神的自由権を確立するための推進力となったもので、歴史上きわめて重要な意味を有する。したがって、信教の自由は人権宣言の花形に数えられ、各国憲法のひとしく保障するところである」(145-146頁)
とされる。要するに、信教の自由、さきほどからのことばでは「信仰の自由」は近代国家においてきわめて重大な、つまり命を懸けて獲得され、かつ守り抜くべき権利である。
この教科書では信教の自由の起源についてこれ以上の言及はないが、こうして旧約聖書を紐解けば、この自由への問題意識は実は中世末期のそれ以前のはるか昔に存在したのであり、かえってそれが16世紀のルターやカルヴァンに反響したのである。
ところで、本日は日本の暦では国民の祝日「建国記念の日」であるが、これは周知のとおりかつての紀元節である。紀元節は神武天皇の即位日を新暦に換算した日であるという。神話的なものであるが、これが大日本帝国の起源であると決め、これを祝日とし、国民を統合するための全国的儀式を行った。小学校では御真影に最敬礼し、教育勅語が奉読された。各地の神社で祭礼が行われ、青年団や在郷軍人会によって式典が行われた(ウィキペディアから)。これに従わないものは当然、不敬罪に問われることになる。特に初等教育の現場は、御真影と教育勅語の謄本は奉安殿に安置され、極端に神聖化され、呪物となり、それをおろそかにすることはほとんど死と隣り合わせとなったほどである。これについては以前お話ししたとおりである(昨年の北支区での教育勅語に関する勉強会の報告として)。紀元節は、第二次大戦での敗北後、連合国、事実上アメリカの強い意向によって廃止された。しかし、1966年に建国記念の日を定める法改正を行い、佐藤栄作内閣の政令によって2月11日と定め、翌1967年から施行された。要するに事実上の紀元節の復活である。しかし、この法改正によって、軍国主義の復活と思想信条の自由や信教の自由が損なわれる可能性を憂慮し、建国記念の日の実施に反対する動きも活発化した。日本基督教団では、戦前の弾圧の経験を踏まえ、信仰の自由を守ることを主眼として、この2月11日を「信教の自由を守る日」と位置づけ、単にキリスト教の信仰を守るというだけでなく、信教の自由という人間の最も根本的な精神的な自由を守ることを誓うのである。言うまでもなく憲法第20条には「信教の自由は、何人にもこれを保障する」と定められている。芦部信喜によると
「信仰と自由とは、宗教を信仰し、またはしないこと、信仰する宗教を選択し、または変更することについて、個人が任意に決定する自由である。これは、個人の内心における自由であって、絶対に侵すことは許されない」とされる(147頁)。
もっとも、信仰の自由は信仰に基づく、儀礼や祈祷、伝道といった客観的活動の自由も含まれるので、この活動がいわゆる「公共の秩序」を著しく反する場合には、最小限度の制約を受ける。つまり信教の自由は無制限ではない。
信教の自由を考える際、やはりもっとも重要なことは、国家権力が一部の宗教に加担しないことである。これは明治憲法において国家神道が諸宗教の上位にあるメタ宗教として位置づけられ、結局のところ、信教の自由は国家によって損なわれたのである。要するに国家神道に従わない宗教は弾圧された(大本教、キリスト教の一部も)。それゆえ、信仰の自由は政教分離原則によって裏打ちされなければならない。特に日本では、国家主義的、いや全体主義的傾向(いや習性)が今なお残り(最近は同調圧力が強いなどと言われる)、伝統と称して理不尽なことにも従わせる動きも強い。かつての津地鎮祭訴訟や愛媛玉ぐし料訴訟、一連の靖国訴訟において一定程度守られているこの原則(しかし自衛官合祀訴訟は最高裁で敗訴)は、次第にぼけ始めているように見える。それは時代の流れの中で、信教の自由が人間の精神的自由の根っこであることが、宗教自体の弱体化、宗教そのものへの疑いの高まる中で、忘れられて始めているからである。その結果、宗教的信念はたんに病的な妄想のようなものであるとか、時代遅れの観念だとかいわれ、物質的現実がすべてであり、その中で快楽(幸福)を追求することがすべてであるという(つまり世俗主義こそが正しいというような)、結局は動物的な態度に帰着していくことになる。そして、いつの間にか、誰かに都合のよい宗教的観念に支配されていくのだろう。そして、気づいたときには自分の自由が失われている。
さて、ダニエル書に戻ろう。三人のユダヤ人は偶像崇拝を拒否した。そのことの意味は説明されていないが、これを読んだユダヤ人は当然わかっている。それは自分の自由を捨てることになるから、いかえれば、誰かの奴隷になることだからだ。彼らは、単に自分たちの内面の自由を守るというだけではなく、その表現である偶像にひれ伏さないという態度(これも行為である。内村鑑三不敬事件を想起しよう)を貫くことによって、信仰の自由を目に見える形で示したのである。この「目に見える形」が重要である。これは抵抗権である。信教の自由とは抵抗権を前提にする。そして抵抗の力自体が、信仰の力でもある。
あらためて、信教の自由を考えてみたが、この問題は非常に重い、特に今の時代において。戦前の空気を知る人は少なくなり、民主主義的で自由な日本に対する疑いと伝統への無謀な回帰も喧伝される中で、私たちは冷静に、かつ辛抱強く、信教の自由を培い、これを強くしていかなければならないと思う。