砧教会説教2018年2月18日
「主に選ばれた者は苦難を越えて救われるー受難節を覚えて―」
マルコによる福音書13章14~31節
受難節の始まりである。受難とはもちろんイエスの十字架での死を指すが、これは単にイエス自身が死の苦しみを経たことを指しているわけではない。キリスト教の考えでは、イエスはあらゆる人間の罪を背負って、つまり、本来各人が罪を裁かれ、永遠の死という罰をうけるべきところをイエスがすべての罰を代わりに受けてくれたということである。それゆえに受難、すなわち苦難を引き受けるというのである。このイエスの受難によって、人間は裁きの結果としての罰を受けずに済んだのである。それゆえに、イエスはキリスト、すなわち私たちを救ってくれた者であると、キリスト教は告白するのである。しかし、イエスが人間であるなら、ほかのすべての人間を代表することができるのだろうか。もちろん、そう考えてもよいが、もし単なる人間であるなら、彼自身、多かれ少なかれ罪や汚れを帯びているはずである。だとすれば、彼自身が誰かの罪を背負うことはできない。自分の罪を背負っているのだから。そこでキリスト教はこう考えた。イエスは本来、神の子であったと。そしてその神の子が人間の形をとって、地上に派遣され、人間として地上を歩み、堕落した創造された者たちの世界に対して、本来父である神が望んでいる世界の在り方、人間の在り方を示そうとしたのであると。しかし、もちろん多くの人間たちはそのことに気付かない。それどころか、この世の力ある者たちはこの世の秩序こそがすべてであると当然考えていたし、元来神の法を与えられていたユダヤ人さえ、自分に都合の良い法(律法)をこさえて、的外れな神の民となっているのであった。
そのような世界の中で、イエスは神の国の宣教を始めた。そして一部の人々は彼の真実に気づき、彼と一緒に神の共同体をつくり始めた。しかし、ついてきた弟子も民も、イエスを地上のメシア、つまりローマの支配にあえいでいる神の民イスラエルを救うメシア、要するにイスラエルの新しいダビデ王であると考えてしまった。一方、イエスは神の子であり、人間全体のメシアである(とまで自覚していたかは疑問であるが)。つまり、人間世界、地上世界の立ち返り、悔い改めを求めていたのである。そしてその悔い改めがなければ、地上世界は神の裁き、すなわち世界全体の滅びに耐えることができないと考えていたのである。マルコによる福音書は、地上世界が煮詰まった状態、すなわち「時が満ちた」という圧倒的な終末意識に染められているが、イエス自身もそのように思っていた。ただし、彼は「神の子」として地上世界に遣わされているのだから、何としても人間の側に立って、人間を救わなければならない。それが子としての使命である。
彼には弟子もでき、民衆もついてきたが、すでに述べた通り、彼らの思惑とイエスのそれとは違っている。イエスはすでに、神殿の崩壊まで告げていたが、それはもちろん誤解され、単なるユダヤ支配層への非難としか受け取られず、結局、イエスはユダヤ人の扇動家として官憲に捕らえられることになる。これが受難の始まりである。それは現実的な理解では、反逆者、あるいは革命家、あるいはメシアを僭称する者である。しかし、もちろんイエスの死後であるが、復活信仰とともに、彼は第二イザヤが預言した苦難の僕であり、同時に神の子であるとされたのである。それも、神の子であるのに、人間の側に立ち、人間の罪によって殺されたのであった。そのことを、弟子たちは、我らの罪を背負って死んだ、自らの命を捨てて、神に執り成しをした。世界を、そして人間を滅ぼさないように、と願って。彼は人間の罪によって十字架にかかるのだが、その十字架の苦しみとは、実は人間の罪を背負ったための苦難であり、同時にその苦難とともに、罪をも滅ぼしてもいる。彼は犠牲の小羊として、その体に罪を背負わされているともいえる。それゆえ、この信仰を受容したものは、すでに自分の罪を帳消しにされ、救いの道が約束されているのである。それはこの差し迫った滅びを免れるということでもあり、一人の人間としての死をも超えて、永遠の命を約束されたことも意味する。
受難節は、このようなイエスの、神の子としての働きである罪の引き受け、つまりは受難を想起するための季節なのである。それゆえ、この季節は自分の罪を振り返るとともに、それを丸ごと引き受けたイエスの十字架の苦難を思い、自らを清め、律して過ごそうとするのである。私たちは自力では自らを救うことができないから、全面的にイエス・キリストにその働きを委ねること、そしてその結果、恵みとしての罪の赦しと救いを受けられたのであると深く思い知ることがこの季節の目的である。
さて、今日のテキストは、受難の始まりに先立つイエスの預言である。ここでは終末が強く意識されている。すでにしばらく前に13章の前半を読んだが、その続きが本日の箇所である(なお、今日の箇所はマタイ伝に並行箇所があり、またルカ伝とも一部並行しているので、以前両書を取り上げた際、講解したことがある。ただし、今日の話とは異なる)。
まず、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」とあるが、これはイエスの時代についてイエス自身が予言したことなのか、それともユダヤ戦争を知っているマルコがイエスの予言として書き加えたものなのかわかりにくいが、おそらくイエス自身が後の時代に向けて預言したのだろう。つまり、イエスの死後のユダヤ戦争での敗北によってエルサレムがローマに占領されることを。しかし、これはイエスの時代よりさらにさかのぼる紀元前2世紀半ばの、アンティオコス・エピファネスの時代のエルサレム蹂躙のことを想起しながら語ったように見える。つまり、後の時代の予言として語っているが、すでに一度は起こっていたのである。このことはマカバイ記Ⅰの1章54節に短く言及されているが、「憎むべき破壊者」というのはその言葉とほぼ同じである(ブデリュグマ エレーモーセオース。マルコ伝の方は冠詞属格が間に入る)。イエスは当然、その時代の伝承を知っていたはずである。もちろん、マカバイ記のギリシア語のテキストを読んでいたとは思われない。とすると、この言葉は元来ヘブライ語(かアラム語)であったはずだから、この言葉は結局ダニエル書12章11節、11章31節の言葉(シークーツ ショーメーム、「憎むべき荒廃をもたらすもの」)であるだろう。おそらくこれはゼウス像だろうが(ローマだとユピテル)、ダニエル書の著者もマカバイ記の著者も、そしてイエスも固有名で呼ぶことは控えた。要するに、彼らの名前を呼ぶことなど憎らしく、汚らわしくてできないといいうことだ。
さて、この後に津波のように荒らしまわる軍隊に言及するが、この恐るべき暴挙は、イエスにとって単なる戦争や侵略ではない。すでに終末論的な世界の崩壊のようである。そして、それを逃れる者はいないかのようである(「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」)。
しかし、「主はご自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」と加えている。ここには「選ばれた者」という信仰が現れている。苦難の期間を縮める神と、それゆえに助かる民。これは、いったい誰のことをいっているのだろう。
これは旧約聖書の歴史を振り返ると、はるか昔の出エジプトの際の「ヤハウェの過ぎ越し」を想起させるものだ。この時は、初子の羊の血を塗ったイスラエル人の家を災いが過ぎ越した。イスラエルは選ばれたのである。ではイエスはこの時、この選びを誰に向かっていったのだろうか。弟子たちと民衆にだろうか。
おそらく、この20節は、あとからの付加だろう。つまり、マルコの教会共同体が、ユダヤ戦争を逃れ、助かったことを念頭に置いているのではないだろか。20節を除いて考えると、今日のテキストは完全に終末の恐怖であり、そのことの予兆に敏感であれという勧告として一貫しているのである。
それでも、この付け加えと思われる20節の思想、つまり選びの思想には注意が必要である。私たちキリスト教はこうした選びの思想をユダヤ教から受け継いでいる。その際、いつも選ぶ側がおり、選ばれる側がいるという非対称な関係が前提とされている。もちろん、選ぶのが神なら、それは致し方ないが、選びをだれであれ「人間」がするなら、それは常に危うさをはらむといえる。そのことを実は、イエス自身がもっとも厳しく警告したのであった。律法によって選別(差別)し、選ばれている者とそうでない者を厳格に分け、異邦人だけでなく、同胞も差別したのがイエス時代のいわゆる「律法主義」であった。これとは趣を異にするとはいえ、新しく出発したキリストの共同体も、選びということに執着したのもの確かである。このことは後のキリスト教の歴史において、クレドーやサクラメントの効力をめぐって、深刻な分断と争いが生じたことを思い浮かべればよい。そしてカルヴァン主義の二重予定説を思い浮かべればよい。
そのような危険があるのは承知しつつ、この選びの思想をどのように位置づけたらよいか。これは単に宗教の問題に限らない。例えば民族的な優位、人種的な優位、性的な優位、学力的優位、その他の優位を「選び」であると主張することが時に起こる。そのような言説が意味を持つかが問われるべきである。選びの思想は終末論的救済においていわば脅しとして機能する面がある。それは、恐怖を煽り、分断を煽る中で、自分たちの優位を信じさせる力である。このことについてこれ以上今日は深入りできないが、キリスト教は、このような選別、選びの思想に強く影響されているのも確かである。
他方、この選びの信仰は確かにこの世の危機や深刻な堕落に直面したとき、それに巻き込まれることを防ぐための防衛的な思想でもあるように思われる。ただし、それでも間違ってはいけないのは、私たちが「優れているから」選ばれたのではないという視点であろう。それは実はすでにイスラエルの出発点から主張されていたのであった(たとえば申命記7章7節)。選びの信仰は常に、弱きもの、抑圧され苦しむものを優先するという意味での選びであったのである。
それゆえ、今日のテキストは世の苦難にさらされ、実に最も小さくされている者たちに向けて言われているのだと解したい。その苦難を、これを語っているイエスがやがてキリストとして担うのだが、それゆえに次には、彼の痛みを自分の痛みとしえた人が、真の意味で「選ばれた者」となるのである。しかも、その選びは単に自分たちには苦しみがなくて万歳というのではなく、実はすでに選ばれ救われているがゆえに、この世の苦難をかえって耐えていけるのだという地点にまで昇華されていくのである。
受難節に選びの信仰について考えてみたが、イエスの受難を私たちの選びにかかわることとして、とらえていただければ幸いである。