砧教会説教2018年2月25日
「日本は本当に大丈夫なのだろうか?―イエスの言葉『目を覚ましていなさい』に寄せて」
マルコによる福音書13章32-37節
今日の箇所に先立つ箇所では、世界の滅びの前兆に言及していた。先週は24-26節も含めて取り上げたが、細かい釈義は割愛したので、少しだけ触れておくと、この24-26節は事実上旧約聖書の引用である(イザヤ書13章10節、ヨエル書2章10節、3章4節、4章15節、そしてダニエル書7章13節)。これらはいわゆる「主の日」表象の一部をなしている。主の日とは神ヤハウェによる世界審判の時であり、事実上世界の滅びを意味する。旧約聖書の預言者たちはこのようなイメージを、繰り返し用いているが、それは文学的な手段ではなく、彼ら自身の感じ取った、ある種の崩壊感覚であり、それは主観的なものである。しかし、そのようなイメージを外に向かって語るとき、それを聞いた一部の人々は、彼らにとっての世界の崩壊であると感じるようになった。滅びの感覚の「共有」、すなわち「共同主観」となる。そして、その得体のしれない恐怖を伴うイメージが増幅され、さらなる表象が加わって、ついには黙示文学が出来上がっていったのだろう。
とりわけ、ヘレニズム時代において、こうした世界崩壊と終末意識は顕著になっていったように見える。そして、そのような恐怖を煽り、人々を扇動する者が現れた。それが例えばバプテスマのヨハネであり、クムラン教団の「義の教師」である。そして彼らの影響を大きく受けたイエス自身もその一人である。しかし、イエスは恐怖を煽り、人々を扇動するだけではなく、かえって世界の終わりに際して、それを抜け出す、あるいは「過ぎ越す」道を見出して、その道へと人々を誘うのであった。世界の滅びは確実に迫っているが、それと一緒に滅ばない道も示したのである。それがイエスの言葉であった(31節)。
そして今日の箇所に至る。ここでは再び終末の到来を預言するが、その日が、つまり「主の日」がいつ来るのかはわからない、という。それゆえ、「目を覚ましていなさい」と勧告した。これははなはだ恐ろしい理解であり、窮屈な勧告である。いつ来るかわからない滅びにたいして、常に身構えていることは苦しいことだ。しかしキリスト教の基本倫理の一つは、滅びに対する心構えを持つことである。特にプロテスタンティズム、とりわけカルヴァン主義的な教会は、予定説を平信徒に強く意識させ、つねに緊張感ある人生を歩むように勧告してきた。それは結局、世俗世界の修道院化であるとも言われる。
ところで、このような世界の終わりという共通意識を最も強く、かつ明確に抱いた時代がイエスの時代であった。そしてイエスはその最右翼であったように見える。しかし、おそらくそう見えるだけで、イエス自身は、恐怖を煽って扇動するというより、災いを「過ぎ越す」方法を明確化したというべきであろう。それが、「悔い改めて、神の支配を信じる」という実存的な転換であった。そして、そのような人々は現実の世界の滅びを過ぎ越して、新しい世界の中で新たに生きることができるという。それゆえ、終末を意識しつつ、同時にそれを越えて生きられるという確信をもって生きるということ、終末論的倫理をキリスト教は核心に置いたといってよい。
もちろん、そうした救いの確信があったとしても、それを持ち続けることは難しい。それゆえに、私たちはある種の覚醒を必要とする。私たちは普段、日常を生きている。つまり、今日も明日も同じ一日が来るように漫然と思っているが、それではだめなのであり、世の変化、世界の崩壊の始まりの前兆に敏感でなくてはならないのである。いざというとき、本当に悔い改め、神への信に立ち返り、救いの世界に入ることができるように、整えていなくてはならないのである。このような生き方への転換を、イエスは呼びかけ、弟子たちはその任務を次の時代へとつないだ。そして、その終末論的倫理は、今に至るまでキリスト教の核に存在する。しかし、このような世界の滅びの感覚(恐怖)やイメージは、ややもすると、この世界に対する否定や無関心へと移行する。そして自分たちは救われているのだから、あとは 野となれ山となれという、非常に独善的な集団になる恐れもある。終末論的倫理は、ついにこの世界への責任を見失っていくのである。ここに大きな落とし穴がある。
しかし、よく考えて見ればわかるのだが、世界の崩壊の渦にまきこまれたら、一人一人の信仰や誠実さはおそらく、ほとんど無力なのではないか。もちろん観念的に救われているのだから、世界は滅んでも私は別の世界で生きるから大丈夫だという主観的確信のなかでは、世界の滅びなど、痛くもかゆくもないということになる。しかし、イエスの語る救いとは、このようなエゴイズム、自分さえよければよい、というようなお粗末なものではない。世界の滅びに向かって歩んでしまう無数の人々を救うための活動なのである。したがって、ある人が信仰を持ちました、その人はもう大丈夫です、というのは残念ならが結論ではなく、始まりに過ぎないのである。どういうことかというと、自ら神の救いに入ったがゆえに、他者を救いへと導くことが必須になるからだ。なぜなら、世の滅びを超える道があるのに、その道を仲間に伝えなければ、それ自体が罪、すなわち仲間を見殺しにするという非常に大きな罪となるのであり、それは神の愛に対する裏切りでさえあるからだ。要するに、悔い改めて神の信に目覚めたとしても、それは実はスタートラインに立ったのであり、そこから今度は活動し始めなければならない。キリスト教は、それゆえ、世の光であることをやめることはないのである。
さて、ようやく今日の主題に入るが、日本は本当に大丈夫なのだろうか?これはいうまでもなく、終末論の意識においての問いである。つまり、日本は滅んでしまうのではないかという問題意識である。もちろん、聖書は様々な天変地異をいわば予兆としてとらえ、世界の滅びをイメージしたが、私たちの生きている時代は、そうした天変地異も然ることながら、もっと作為的で手の込んだ、それゆえ表面的にはそう見えないような滅びを歩んでいるのではないか。
3.11については、改めて当日の礼拝で取り上げるつもりだが、一言触れておくと、あの震災は確かに自然の威力によるが、その結果起こったことは人災の面がある(いうまでもなく、福島第一原発のメルトダウンとその後の地域社会の崩壊)。あるいは、格差社会における貧困問題、第二次大戦後の枠組みの中で解決不能に陥った沖縄の問題、そして現在の憲法改正といった課題、アベノミクスと称する政策の失敗。これらは、なにか漠然とした政治問題や社会問題のように感じられてしまうが、わたしは今日の聖書箇所の前にあるいちじくの成長の比喩から読み取るべきものであるように思う。すなわち、崩壊の「しるし」として。
昨年末から昨日にかけて、明石順平『アベノミクスによろしく』(集英社インターナショナル新書、2017年10月)、筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(中公新書、2018年1月)を読んだが、前者は安倍首相の主導する経済政策が失敗しているがそれを糊塗していることを政府の資料自体から論証したものである。これは非常に痛快であるが、私たちはほとんどだまされているといういことだ。空前の金融緩和(異次元緩和と呼んでいる)によっても、マネーストック、つまり市中に回るお金の総量は増えず、結局、日銀の当座預金に積まれているだけのこと、雇用回復といわれているが、非正規雇用の増加によるのであり、求人倍率の上昇は、少子化影響と将来の受容の先食いにすぎないこと、株価上昇は日銀と年金基金による買い支えにすぎないこと、そしてより陰湿なのはGDP算出基準変更をいいことに、GDPをかさ上げしたこと、それゆえ、じつはGDP成長率は民主党時代の三分の一であることなどである。このようなあきらかな論証を残念ながら、マスコミはそれほど取り上げない。それどころか、働き方改革なる労働力搾取のための法案に関する厚労省の作為的統計、および書類の隠ぺい問題に関しても、平昌オリンピックの騒ぎ(わたしも結構見てしまった)に紛れて、追及は弱い。本来、法案の撤回と厚労大臣の辞任となるべき事案である。
もちろん、巨大与党の支配にあって、批判的力がそがれるのもわかるが、私はマスコミも含め、ほとんど共犯なのではとも思う。そのことについて、先に挙げた筒井清忠の書物を基にまとめてみよう。
彼によれば、大衆社会の到来はすでに明治末から大正期にかけて始まったとみられるが、それに大きな力を及ぼしたのは、新聞であった。近年、ポピュリズムという言葉をよく聞くが、特に小泉首相の政治手法・戦略に関してそう呼ぶことが多く、石原慎太郎元都知事や小池百合子現都知事の選挙運動もそうであった。劇場型政治と呼ばれることも多い。彼らはそれを意図的・主体的に仕組んでいるが、実はポピュリズムは戦前、それも明治末(日露戦争後)から大正期にかけて、新聞が大衆の意思を操作することによって生み出されていた。一般に、戦争期の報道支配を軍部が行い、それによって民衆が支配されたという風に習い、そして報道各社はその被害者であり、それに抵抗できなかった弱さを報道人が反省したりするが、実は元来、新聞各社には政治や軍を動かす力があり、相当な権力だった。そしてそれを用いて、大衆を操り、かつ政権を突き動かした面がある。
そもそも、新聞は近代国家において、民衆を「国民化」するための装置であった。明治政府は、新聞社を意図的に創設させたのだった。それがやがて主体化し、やがて第四の権力となった。そして大衆を煽り、特に国家と大衆を一体化せ、やがて戦争に動員するための装置となった。もちろん、今もその本質はそれほど変わっていない。
それゆえ、何が意図され、そして何が隠されているのか、あるいは何が始まっているのか、に私たちはアンテナを張っていなければならないが、イエスはそのために「目を覚ましていなさい」と言った。イエスの時代にはマスコミはないが、メディアはあった。それは今も残る「手紙」であり、それを回して読む、あるいは福音書のような物語、そしてイエスの言葉集(これは預言書と言ってもよい)である。すでに、ユダヤ人は旧約聖書をまとめており、それを皆で読んでいた。これらを通じて、ユダヤ教徒も、原始キリスト教徒もなんとか「目を覚まして」いられたのである。
ではわたしたちは今何を感じ取っているのだろうか。政府のウソ、原発推進派のウソ(たとえば日本の送電網は有り余っており、再生可能エネルギーをいくらでもそれを通じて供給可能なのに、足らないと言い張る)、外国の脅威を煽り(アメリカとともに)、アメリカの戦闘機を買い、艦船の一部を空母化しようとする勢力があり、多くの人々はいつの間にかその声に流されている。いつの間にか形成される世論と称する一般意思によって、流れが決められていく。その中にあって、目を覚ましている人々は何をなすべきかが問われることになる。
日本は大丈夫なのか、という問いに対し、やはりこのままでは厳しいと思う。私は政治的にも社会的にも崩壊が起こりはじめていると感じている。富の偏在とこれまで産業構造の崩壊、農村の解体、中間層の分裂によって、人々が非常に身勝手になっている。このような事態を前にして、なすべきことは、私たちキリスト者が、再度自信をもって、世の光、地の塩となることである。そのことの具体的な中身は、語るまでもないが、イエスの言葉と出来事に現れた「神の愛」の姿を想起すること、つまり一人一人の人間が、だれも漏れることなく、神の言葉によって刻印された心を本来持っていること、そしてそれを想起することにかかっていると思う。そのための働きの一つが、この礼拝である。この礼拝は、単に皆さん一人一人の魂の救いにあるだけでなく、礼拝そのものが神の言葉の表れなのである。そしてその表れの一部として教会員一人一人が、すでに世の光となっているのである。それゆえ、私たちは、この多難な時代にあって、キリスト者としての使命を想起すべきである。それは、十字架のイエスとともに、自分自身の課題を背負いつつ、与えられた命が尽きるまで、神よりの課題を担うのである。すなわち、肉としての命とともに、霊としての新たな命を頂いていることを誇りとして、世にあって輝かねばならないのである。