日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2018年3月4日
「自らを省み、そして吟味せよ」コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章1~13節
 この手紙を閉じるにあたり、パウロはやや脅しめいた言葉を連ねている。フランシスコ会訳は13章の見出しを「終わりの警告」としている。この手紙は複数の手紙を編集したものと言われるが(岩波訳は五つに分け、それを年代順に並べて訳している)、10-13章はとくに敵対する者たちへの批判にあふれており、この部分は独立した手紙なのかもしれない。ただ、この手紙の1章からして、コリントの人々への批判と反省を求める内容となっており、手紙全体の趣旨は一貫しているように見える。要するに、コリントの人々に対する反省と福音への立ち返りを促すことを目的としているということだ。
 さて、パウロは申命記19章15節を引用して、何事かを有罪と証明しようとしているかのようである。
いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。(申命記19章15節)
申命記のこの箇所に続く数節は裁判における証人の扱いについての規則である。そこでは偽証の場合の罰について、象徴的に記されている。
16 不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、17 係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。18 裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、19 彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。20 ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。21 あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。(申命記19章16-21節)
偽証は証言した相手の罪に対する罰と同じ罰が降りかかるのである。パウロがここで申命記を引用したのは、当然自分が証人として自信があるからだ。彼は3度目の訪問を前に、いわばのべ3人目の証人としてコリントの人々の背信や堕落を証言するという意気込みなのである。証人になるということは、もしそれが虚偽や誤りなら、逆に自分を追い詰めることになるのだから、このような表現にはパウロの強い思いがあるということだ。
 パウロは、11章で偽使徒にたぶらかされていることを非難しているが、コリントの教会はパウロの考える信仰から離れ、ある種の偶像崇拝と教会内部の混乱、教会間の連帯の拒否(献金問題)、教会の孤立、そして異端化への流れの中にあるように見える。そのためパウロは全力でそれを阻止すべく、コリント教会に反省を求めていく。3節以下は非常に修辞的な文言だが、要するに今度訪問したときは、あからさまに、厳しく問題を指摘し、断罪する、なぜなら私はキリストの権威を身に帯びているのだから、ということである。パウロは自分がキリストの代わりに語っているという自信がある。そのことを4節で雄弁に語っている。
4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています
この言葉に本来続くべきなのは、「だから、わたしたちは恐れることなく、断固として語れるのだ」という文言だろう。パウロは自らをキリストに重ね、すなわち、キリストとともに十字架に死んだのであり、同時に神の力によってよみがえり、新たな命を与えられて生きている。すなわち、この世に死んで、神の支配の内に生きているのだから、もはや恐れることなくコリントの人々に語ることができるのである。
 そして彼は「信仰」をもって生きているのかを問う。「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と。今日の題目はここからとったが、そもそも、信仰とは何か?神を信じる、キリストを信じる、聖霊を信じる、このことがキリスト教の信仰告白であるが、それは三つの対象を前にして、その存在を認めることだろうか。信じるという言葉を日本語で普通に考えると、もう少しあいまいで、実際には見えないもの、触れることのできないものだが、それは確かにあるのだと考えることを「信じる」と呼ぶ。たしかに、神もキリストも聖霊も、見えるものではない。しかし、それを確かにあると考えることが「信仰」であるということで済ませてよいのだろうか。
 パウロはこの勧告に続いて、こう言っている。「あなたがたは自分自身のことしかわからないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなた方が失格者であるなら別ですが……」と。彼は、実はここで、信仰とは何であるかについて端的に語っているのである。すなわち、信仰とは自分の外側にある対象を認めること、あるいは命題として書かれたクレドーを読んでそれ覚え、承認すること、あるいは見えない何か、触れることのできない何かを本当にあると思い込むこと、などではなく、私たちの中にあるイエス・キリストを想起することだというのである。「イエス・キリストがあなた方の内におられる」(5節)、あるいは「キリストに結ばれた者」(4節)という表現には、実はその背後に「すでに」という副詞を補う必要がある。
 ただ、注意したいのは、イエス・キリストに繋がっているということは自明ではなく、「失格者」「適格者」という言葉が出て来るように、キリスト教を名乗るために何らかの基準があるように書かれている点である。そのことはもはや具体的には書かれていないが、それはすでに前に書かれてきたことである。それは結局、この世の価値に縛られること、肉の力に屈することを意識しているかどうか、ということであった。キリストが十字架についたのは、世の罪により、かつ世の罪を担うこと、そして同時にそれを滅ぼすことであったとパウロは理解したので、そのことを前提に、この世を相対化し、かつ超えることができるのだと考えた。その結果、キリストを受け入れる人々は、すでにキリストによる罪の滅ぼしの力にあずかっているのであり、その力によって救われているのである。そのようなキリストの救いにあずかっている者が、再びこの世の力に惑わされ、自分自身の力を信じ、教会を「私する」ことは許されることではない。それゆえパウロは、このような危機にあって、あなた方自身の中にすでにあるはずのイエス・キリストを確認せよと勧告したのであろう。
 5節初めの句について、新共同訳聖書は「信仰をもって生きているかどうか」、フランシスコ会訳は「信仰を生きているかどうか」、そして岩波訳(青野太潮訳)は「信仰のうちにあるかどうか」とそれぞれ訳すが、テキスト(エイ・エステ・エン・テーイ・ピステイ)の直訳は岩波訳である。いずれにせよ、イエス・キリストがあなたたちの内にすでにあることを想起せよということである。
 さらにパウロは自分を低めながら、
それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。 わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。(13章7-9節)
彼らしいレトリックで、私はどう評価されようと、あなたたちが立ち直り、完全なものになってくれればよいと語る。パウロは、自分はどうなろうとコリントの人々が強くなってくれればよいという。「何事も真理にさからってはできませんが、真理のためならばできます」と語るが、この「真理」は当然「キリスト」に置き換えて読むべきだろう。すると、キリストが十字架にかかり、自らを空しくして、人々を救ったように、パウロもこのキリストにならって、自らを低めるのである。
 もちろん彼は、本当は憤慨している。そして強い危機感を抱いている。それゆえ、非常に修辞的であるが、強い主張を展開する。それでもなお、キリストの謙遜をひとまず前に出すのである。ただ、思えばイエス自身も、ユダヤの権威(律法学者やファリサイ派)に対しては、非常に辛辣であり、敵対的に振舞った。イエスは、非常に厳しかったと思われる。そして若かった。パウロはそのイエスを知らないにもかかわらず、イエスのようにふるまっているのである。それはなぜか。彼はダマスコへの途上、イエスの幻に触れた。そしてパウロ自身もまた、イエスと同様に、ユダヤの権威、律法の権威から離脱したのである。そして、本来旧約聖書が見出していた、創造と恵みの真理を見出した。そしてそれをすでに再発見し、しかしそれゆえに十字架につけられたあのイエスを、彼は絶対の犠牲、すなわちこれよりほかに大切なものはないと確信したのである。そのイエスを彼は身にまとった。キリストに連なるというのは、彼にとって、キリストを再演することに限りなく近づいていく。しかし、すでに絶対の犠牲となった以上、それを繰り返す必要もないし、あらためてそのようになることはかえって無益であるし、同時にそれは越権でさえある。それでもなお、彼はイエスのように自らを低めるのだと主張した。そして「あなた方が完全なものになること」を祈るのであった。
 「完全なものになること」をかれは繰り返し、希望する(9節、11節)。パウロはキリスト者の完全ということをほかの箇所でも主張するが(7章1節、10章6節)、これは一見、マタイ福音書にある律法の成就としての完全を意味するかのような、非常に禁欲的で、無駄なもの、邪なもの、醜いものを取り去ったという意味での「完全さ」すなわち、「非の打ち所の無さ」を意味するように見えるが、おそらくそういう意味ではない。そのような洗練や克己、あるいは比較と選別を通じて「高くなっていく」というイメージで「完全」を理解するのではなく、それは「円(まる)」あるいは「玉(たま)」」のような、ある種の円満さ、それぞれが凸凹を持ちつつも、それぞれが互いにそれを補い合い、全体として安定するような「完全さ」ではないだろうか(第一コリント12章参照)。ただ、パウロ自身、かつてのユダヤ教ファリサイ派としての律法の完全な遵守ということにどこか引きずられているので、ついつい完全などということを言うのだが、そして、そのようなパウロ的なキリスト教が後のキリスト教の本流となるのであるが、本当はそういうことでもなかったのではないか。11節後半、つまり完全なものとなりなさい、と言った後、「励ましあいなさい、思いを一つにしなさい、平和を保ちなさい」と終わりの挨拶としての勧告を語るが、これは教会として円満を促す一般的な挨拶のようなものだとしても、相互のいがみ合いやどちらかの排除のようなことではなく、互いの共存や歩み寄り、分裂や崩壊を超えたコリントの教会の姿を望んでいるのであろう。
 この手紙の最後には教会の礼拝の最後に宣言されるいわゆる祝祷の言葉が置かれている。これは、実は「父」と「子」と「聖霊」の一体(三位一体)を著す言葉としてよく知られた言葉である。つまり、最後にパウロが記したのは、やはり一致というか、異なるように見えるものの一体ということであった。それゆえ、私は、この言葉がコリントの教会への、そしてじつはあらゆる教会への、つまり分裂し解体していく教会への、最大のメッセージになるようにも感じるのである。
 コリントの教会の問題はもちろん他人ごとではない。そしてこのことは単に教会という共同体だけでなく、もっと広く共同体にとっての問題であると敷衍してもよい。イエス・キリストとはすでにある教会の専有物ではなく、あらゆる人々にとっての救いの源なのだから、壊れていく共同体にとって、パウロのメッセージは今なお効力を持っていると私は思うのである。