砧教会説教2020年9月13日
「私は記憶され、贖われる(はずだ)」
ヨブ記18章1節~19章29節
今日の聖書箇所はかなり長いが、友人ビルダドとヨブの討論をまとめて考えてみたい。
第二回の討論の二人目はビルダドである。彼の一回目の発言は、全体としてヨブを励まし、神の義(律法)を生きる者は結局幸いを得るという応報思想に基づく発言であった。もちろん、ヨブの悔い改めが前提である。これに対して二回目の発言はもう我慢がならないという調子で、神の義を棄てて生きる者、つまり「神に逆らう者(レシャイーム)」の末路を辛辣に描く。これはヨブの行く末に重ねられている。要するにヨブに対する厳しい非難であると言ってよい。
まず1-2節で互いの理解を前提に話し合うことを提案する。友人から見るとヨブは相手を全く理解しようとせず、ひたすら敵対的に発言するだけである。ビルダドは続く3節で次のように言う。
18:4 怒りによって自らを引き裂く者よ/あなたのために地が見捨てられ/岩がその場所から移されるだろうか
彼から見ると、ヨブは自分の怒りによって身を亡ぼす者である。「箴言」には怒りが人の人生においてどれほど有害であるか、繰り返し語られているが(箴言14章29-30節、15章1節、19章19節、29章22節等)、ここでは怒りによって身が引き裂かれたとしても、大地が罰を受けたり、岩が場所を移したりすることなどないという。つまり、ヨブが怒りに満ちて騒いでも、世界は変わらないというのである。これはヨブに対する嘲りでさえある。ビルダドはヨブを慰めるつもりはもはやないのであろう。
続いて「神に逆らう者」の末路を延々と語り始める。光から闇へ、強さから弱さへと反転し、破滅と死が待ち受け、自分の住まいは失われ、ついにすべて忘れ去られるという。すなわち
18:17 彼の思い出は地上から失われ/その名はもう地の面にはない。18:18 彼は光から暗黒へと追いやられ/この世から追放される。18:19 子孫はその民の内に残らず/住んだ所には何ひとつ残らない。18:20 未来の人々は彼の運命に慄然とし/過去になった人々すら/身の毛のよだつ思いをする。18:21 ああ、これが不正を行った者の住まい/これが神を知らぬ者のいた所か、と。
神に逆らう者の破滅とは、災いの招来と死、自分の拠点の消滅である。これはしかし、神に逆らう者だけにやって来るともいえない。ただし、たいていはそうだということだろう。要するに神に逆らう者には罰が降るが、その究極はその名が一切顧みられないということにある。とすると、一人の人間が正しく生きるなら、その者は神に記憶されるということだ。そしてその記憶されることが一番大事なのである。この点について、19章で深められている。
さて、神に逆らう者は地上からその記憶も含めて拭い去られるとすれば、ヨブは一体どうなるのだろうか。
まず19章1-5節でヨブは友人たちの仕打ちを責めている。「侮辱はもうこれで十分だ」といってこれ以上誇張して責め立てるなと訴える。そして仮に自分が罪を犯していたとしても、自分自身に留まるべきものだと語り、友人たちにとやかく言われる筋合いはない、と語る。つづいて友人たちにむけて神の非道を並べて立てている。完全に神の敵となってように見えるが、ヨブによれば、そもそも神自身が自分に対して「非道な振る舞いをし」たのである。「不法」なのは神の方であって、自分ではないという。これは友人から見れば完全に「不敬」であり、もはや取り返しがつかない冒涜と見えたはずだ(神を呪う者は処刑される)。ヨブは極めて辛らつに神の理不尽さを語っている。すなわち
19:6 それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし/わたしの周囲に砦を巡らしていることを。19:7 だから、不法だと叫んでも答えはなく/救いを求めても、裁いてもらえないのだ。19:8 神はわたしの道をふさいで通らせず/行く手に暗黒を置かれた。19:9 わたしの名誉を奪い/頭から冠を取り去られた。19:10 四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように/希望は根こそぎにされてしまった。19:11 神はわたしに向かって怒りを燃やし/わたしを敵とされる。
このようにヨブは自分の災難を神の理由もない仕打ちによるのだと語る。さらに自分の周囲の人間たちも、妻も誰もかれも、自分から引き離されて、彼らから敵視され、孤独になった(12-19節)。ヨブのこの言明は、実はビルダドの先の発言の中の「神に逆らう者」の姿と同じである。ビルダドの発言はヨブの語るヨブ自身の姿に重なっているのだ。しかし、ビルダドの描く「神に逆らう者」は当然の報いを受けているのに対し、ヨブは自分の姿を「神が自分に逆らった」結果であるとみているのである。要するにヨブにとって、悪いのは「神」なのであった。それゆえ、ビルダドとの議論は全くかみ合うことがない。けれども、どちらにせよ、結果は孤独と忘却であり、ヨブはそのことにどうしても承服しがたく、ビルダド(たち)に向かって懇願する(「憐れんでくれ」21節)。そしてヨブは自身の究極の望みを語り始める。すなわち
19:23 どうか/わたしの言葉が書き留められるように/碑文として刻まれるように。19:24 たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され/いつまでも残るように。19:25 わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。19:26 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。19:27 このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
ヨブの発言の核心ともいえる箇所である。敵対する神によって理不尽な災いを被り、財産も子どもたちも、そして自分の身体も蝕まれ、風前の灯火である。そして完全に孤独となり、あとは忘却の渦に飲み込まれるだけである。このような事態に至ってなお、ヨブは何としても自分の主張、自分の正しさを書き留めてほしいという。この不当に見える私の姿を記憶してほしいというのである。「書き留められる」こと、「碑文として刻まれる」こと、それらが「残される」こと、すなわち後世に記憶されることを望むのである。これは何を言おうとしているのか。
ヨブはすでに自分の生きる時間の中で解決しないことを前提しているのである。自分の時間の中で自分の復権はおそらくないだろう。それならば、この私の主張を記録し、この私が後の時代においてもう一度吟味され、名誉を回復してもらうほかはないのである。では、その回復を担うのは誰であるか?
それはやはり、ヨブにとって神しかない。ここで「あなた」と呼び掛けられている神こそ、自分を不当にも罰(災い)を与えた張本人である。しかし、彼はその神がなお、義の神であることを信じているのである。そして結局、神自身がヨブを「贖う者(ゴーエール)」なのである。これはどういう意味なのだろう。
ヨブは神の悔い改めを求めているように見える。神が考え直し、ヨブのへの罰を見直し、それどころか冤罪としてすべて取り消し、彼の名誉を回復する者として現れるということだろうか。ヨブにとって、神は常に対話する相手であり、単にその律法を守っていればすむような相手ではない。律法を守るというのは外在的な文字に忠実であるということであって、実際には対話がないのである。しかし、一度固定された権威は、自動的に動き出し、律法も自動的に適用されるようになる。もちろん、ヨブに対する災いは律法が自動的に適用されて引き起こされたことではなく、その背後にヤハウェと悪魔との取引があった。悪魔の提案に従った神は当然ヨブの無垢と信仰を疑うことがなかったのである。しかし、地上の友人たちは、生じた災厄からヨブには神罰が降ったとみた。そしてそれ以外に理解しようがなかった。これはヨブの背きの結果に違いないのである。しかし、ヨブは自分の潔白を譲らず、悔い改める神と贖う者としての神に、この人生を越えての回復さえ願うのであった。まず「贖う者」が塵の上に立つ。そしてヨブ自身が皮膚を損なわれようとも、「この身をもって」神を仰ぎ見るのだと、非常に鮮烈な希望を語る。「この身をもって」というのは22節の「肉をうつだけで」(これは意訳)と同じ「ミ・ブサーリー」で、前置詞ミンを素朴に生かして訳せば「わが肉を離れて」であるが、古来(ウルガータ以来)、「わが肉において」と訳してきた(岩波版(並木訳)当該箇所の注を見よ。ただし岩波訳版は「わが肉なしに」とし、ミンを素直にとる)。新共同訳は「この身をもって」で、ウルガータ以来の伝統にしたがう。新しい「聖書協会共同訳」は「私は肉を離れ」とする。26節前半、「この皮膚が損なわれようとも」と対句的に理解するなら、やはり「肉を離れても」とするのが良いと思う。要するに現在の肉体が失われても、「神を仰ぎ見る」だろうという強い願望である。ここで「仰ぎ見る」と訳されているのはハーザーであるが、これは日常的な見る、目に映るというより、幻に見るというニュアンスを含む。つまりより観念的想像的な認識を意味する。ヨブはなんとしても「この私」が神と直接出会うことを求める続けるのだ。
ちなみに、この箇所の伝統的な訳「この身をもって」という表現は肉体の復活の信仰の表現であると見るのが普通らしいが、果たしてどうか。やはりこの箇所は「この肉を離れても」という執拗なまでの自らの正義の回復を願う強烈な主張であると見たい。ともあれ、この断章(23-27節)はヨブの叫びの核心をなしていると言えよう。
私たちはヨブの大胆な主張、すなわち神自身が敵であり、ヨブを不当に苦しめているという主張、そして神自身に対してヨブを贖う者となってくれと願うこと、つまり神の悔い改めを求めること、このことに驚く。友人たちから見れば、このような主張はまったく承認できないだろう。しかし、これはヨブが神に対する信頼を持ち続けているということの証でもある。友人たちは神の法、単純な応報によって報いるはずで、神が自分を顧みて(悔い改めて)、審判者から贖う者に転ずるということを理解しない。当然だが、人間の側が悔い改めて神に帰順するなら、憐れみをかけて赦しもしよう。しかし神の側が自分の非を認めたうえで、贖う者に転ずるというのは到底了解できないのだ。
しかし、ヨブはここで神との本格的な対話を求めるのである。神は創造の主体として人間をはるかにしのぐ、いや比較など意味を持たない権威であり、権力であるにもかかわらず、創造の主体と同時にその責任主体として、人間と向き合わなければならないのである(というのがヨブ記の主張)。もちろん、ヨブの人間としての時間、肉体を持つ者としての時間は限られる。しかし、その肉体の時間を越えて、ヨブの魂の叫びを伝えていく別な仕方、方便として「記録」と「記憶」がある。その記録や記憶はヨブの魂の叫びなのであり、その叫びを叫び続けることによって、いつかは神が贖う者として立ち、ヨブの復権を認めるはずである。
私たちは自分の人生の時間の中で、自分を完結させることなどほとんどできない。まして不当な苦しみ、自分の力ではどうにもならない、巨大な災厄によって身も心も崩れる時がある。そしてそのことを解決することができずに終わることもほとんどである。しかし、それを自分の内に留め、語らず、弱音を吐かず、ヒロイックに生きることさえある。つまり鎧をつけて生き続けることがある。しかし、自分にとって大切な者を奪われ、破壊され、失意にありながら、それを問わずに生きるのはこれまた理不尽である。ゆえに、ヨブは問い続ける。それだけでなく、神自身が贖ってくれることを仰ぎ見て、すなわち災厄の中に立ちつつも、そこからの解き放ち、そして復権と復活を望むのである。そこに、友人たちの素朴な信仰とは次元を異にする、いわば対話的信が見いだされるのである。